伯父の訃報2
2015年 04月 03日
会津では法要時に「歌詠み」という風習があります。
会津にある三十三観音、それぞれの歌を、独特の節に合わせて、隣組の有志の叩く鐘に合わせ、関係者こぞって唱和するのです。
たぶん無尽講と縁があるような風習だと思います。
きっと会津に限らず、いろんなところでやっているのではないかと思われます。
今回も、お通夜の前にきっちり行われました。
これはけっこう長く、節が間延びしていて眠くなる感じだし、三十三だけかと思いきや、番外編もあり、子どものときは苦痛でした。
座りっぱなしなので足もしびれるし。
現在は、地方も自宅での法要が減り、よって畳に正座することもなく、足のしびれ問題は解消されつつあります。
若いときと違って、詠まれる歌の意味にしみじみしたりもします。
そうとなれば、情緒のある風習に思えるものですね。
歌詠みに続く通夜は、会津の場合、親族とごくごく近しい人だけで行われ、友人知人はほとんど来ません。
通夜ぶるまいで、こじんまりと故人を偲ぶ習わしです。
そして私はそこで、おもいがけない人から声をかけられたのでした。
伯父は、約50年間、喜多方で酒屋を営んでいました。
今は親族に店を継ぐ人がいなくて権利を他の人に譲ってしまいましたが、そもそも祖父は酒をつくる杜氏をしながら酒屋をやっていて、長男である伯父が店を継いで、昭和の時代を生き抜いたのでした。
伯父の二人の息子はどちらも医者になりました。
国立の大学とはいえ、息子(年子)を同時期に、親元から離れた場所の医学部に通わせることは、伯父伯母にとっては経済的にかなり大変だったと思います。
このふたりの兄弟が、本当に笑っちゃうほど仲がよくて、子どもの頃から一緒に肩を組んで学校に通っていたとか、片方が医者を志すと決めたら、もう片方がせっかく入った国立大学(当時は一期校と呼ばれていた)を辞めてしまって、同じ大学の同じ医学部をめざすことにした、とか、とにかく仲良しエピソードに事欠きませんでした。
そういえば、ふたりが中学生のとき、親は忙し過ぎて子どもに対して干渉する余裕もないのに、ふたりともよく勉強が出来て、しかも運動部でも頑張っていて、休みとなれば楽しそうに酒の配達の手伝いをしていることを知ったふたりの中学校の校長先生が、どんな子育てをすればそんな子が育つのか、伯父のところに「取材」に来たことがある、と聞いたことがあります。
・・でき過ぎてウソくさい、いやらしいほどの話ですが、本当にそうだったんだよなあ。
私から見れば、子どもの頃は他の従兄より田舎臭い、ヘラヘラしたふたりに見えたけれど、親が必死で働いている姿を目の当たりにし続けることの威力はすごいのかもしれません。
夏休みは当然のようにふたりは親を手伝ってた、そういえばホントにそうしてた。
今も営業中のT酒店。
「夢心」は、祖父が杜氏をしていたお酒の名前です。↓↓
私が高校生の頃の伯父の酒屋で従業員をしていたのが、当時、30代ぐらいだったタナカさん。
声をかけてくれたのはそのタナカさんでした。
「Mちゃんだべ?覚えでっかよ?」と言われ、すぐに思い出しましたが、私はタナカさんとは高校卒業以降、一度も会っていないし、正直、私はタナカさんのことを、以来一度も思い出したことがないし、まさか先方も私のことを覚えているとは思いませんでした。
「タナカさん!よく私のことを覚えててくれましたね」と心底ビックリして言うと、「そりゃー、覚えでるよお。変わってねえものお」と。
えっええぇーーー!?
変わったべしたあ!
35年以上も経ってんだがらああ(思わず会津弁)。
続いて、もうひとり私に声をかけてきた男性がいました。
「Mちゃん、僕のこと、覚えでっかよ?」
「Mクン!」
私が高2の春休みにアルバイトをした時計屋(伯父の奥さんの実家)の息子Mクンでした。
彼は私より2才下の、いつもニコニコしている男の子でした。
「私のこと、覚えていてくれたの~?」
「うん。ウチでアルバイトしてだべえ。そりゃー、覚えでるよお。変わってねえものお」
ん?最近、いや、つい今しがた聞いたようなセリフ。
あの、しつこいようですけど、35年ぶり以上なんですけど。その間、一度も会ってないんですけど。
でも、タナカさんとMクンに声をかけられて本当にうれしかった。
高校の同級生や近しい親戚以外にも、35年の時を経ても自分を記憶にとどめていてくれた人がいるとわかることが、こんなにも心に灯をともしてくれる心持ちになることとは。
それは私の、ちょっと独特の環境での高校時代のせいもあるのかもしれませんが、既に親がなく、帰るべき実家はない喜多方を遠くに感じるばかりのここ数年だったからこそなおのこと、二人がなんの迷いもなく「Mちゃん!」と声をかけてきてくれたことが心に沁みました。
その日の宿泊はセレモニーホール。
伯父さんが安置されている添い寝部屋(というのか?)になぜか私も押し込まれ、男女入り混じっての雑魚寝の落ち着かなさと、人の出入りの激しさと、絶やしてはいけない線香の煙と、再発した腰痛のせいで、ほぼ一睡もできず、朝を迎えたのでした。
会津にある三十三観音、それぞれの歌を、独特の節に合わせて、隣組の有志の叩く鐘に合わせ、関係者こぞって唱和するのです。
たぶん無尽講と縁があるような風習だと思います。
きっと会津に限らず、いろんなところでやっているのではないかと思われます。
今回も、お通夜の前にきっちり行われました。
これはけっこう長く、節が間延びしていて眠くなる感じだし、三十三だけかと思いきや、番外編もあり、子どものときは苦痛でした。
座りっぱなしなので足もしびれるし。
現在は、地方も自宅での法要が減り、よって畳に正座することもなく、足のしびれ問題は解消されつつあります。
若いときと違って、詠まれる歌の意味にしみじみしたりもします。
そうとなれば、情緒のある風習に思えるものですね。
歌詠みに続く通夜は、会津の場合、親族とごくごく近しい人だけで行われ、友人知人はほとんど来ません。
通夜ぶるまいで、こじんまりと故人を偲ぶ習わしです。
そして私はそこで、おもいがけない人から声をかけられたのでした。
伯父は、約50年間、喜多方で酒屋を営んでいました。
今は親族に店を継ぐ人がいなくて権利を他の人に譲ってしまいましたが、そもそも祖父は酒をつくる杜氏をしながら酒屋をやっていて、長男である伯父が店を継いで、昭和の時代を生き抜いたのでした。
伯父の二人の息子はどちらも医者になりました。
国立の大学とはいえ、息子(年子)を同時期に、親元から離れた場所の医学部に通わせることは、伯父伯母にとっては経済的にかなり大変だったと思います。
このふたりの兄弟が、本当に笑っちゃうほど仲がよくて、子どもの頃から一緒に肩を組んで学校に通っていたとか、片方が医者を志すと決めたら、もう片方がせっかく入った国立大学(当時は一期校と呼ばれていた)を辞めてしまって、同じ大学の同じ医学部をめざすことにした、とか、とにかく仲良しエピソードに事欠きませんでした。
そういえば、ふたりが中学生のとき、親は忙し過ぎて子どもに対して干渉する余裕もないのに、ふたりともよく勉強が出来て、しかも運動部でも頑張っていて、休みとなれば楽しそうに酒の配達の手伝いをしていることを知ったふたりの中学校の校長先生が、どんな子育てをすればそんな子が育つのか、伯父のところに「取材」に来たことがある、と聞いたことがあります。
・・でき過ぎてウソくさい、いやらしいほどの話ですが、本当にそうだったんだよなあ。
私から見れば、子どもの頃は他の従兄より田舎臭い、ヘラヘラしたふたりに見えたけれど、親が必死で働いている姿を目の当たりにし続けることの威力はすごいのかもしれません。
夏休みは当然のようにふたりは親を手伝ってた、そういえばホントにそうしてた。
今も営業中のT酒店。
「夢心」は、祖父が杜氏をしていたお酒の名前です。↓↓
私が高校生の頃の伯父の酒屋で従業員をしていたのが、当時、30代ぐらいだったタナカさん。
声をかけてくれたのはそのタナカさんでした。
「Mちゃんだべ?覚えでっかよ?」と言われ、すぐに思い出しましたが、私はタナカさんとは高校卒業以降、一度も会っていないし、正直、私はタナカさんのことを、以来一度も思い出したことがないし、まさか先方も私のことを覚えているとは思いませんでした。
「タナカさん!よく私のことを覚えててくれましたね」と心底ビックリして言うと、「そりゃー、覚えでるよお。変わってねえものお」と。
えっええぇーーー!?
変わったべしたあ!
35年以上も経ってんだがらああ(思わず会津弁)。
続いて、もうひとり私に声をかけてきた男性がいました。
「Mちゃん、僕のこと、覚えでっかよ?」
「Mクン!」
私が高2の春休みにアルバイトをした時計屋(伯父の奥さんの実家)の息子Mクンでした。
彼は私より2才下の、いつもニコニコしている男の子でした。
「私のこと、覚えていてくれたの~?」
「うん。ウチでアルバイトしてだべえ。そりゃー、覚えでるよお。変わってねえものお」
ん?最近、いや、つい今しがた聞いたようなセリフ。
あの、しつこいようですけど、35年ぶり以上なんですけど。その間、一度も会ってないんですけど。
でも、タナカさんとMクンに声をかけられて本当にうれしかった。
高校の同級生や近しい親戚以外にも、35年の時を経ても自分を記憶にとどめていてくれた人がいるとわかることが、こんなにも心に灯をともしてくれる心持ちになることとは。
それは私の、ちょっと独特の環境での高校時代のせいもあるのかもしれませんが、既に親がなく、帰るべき実家はない喜多方を遠くに感じるばかりのここ数年だったからこそなおのこと、二人がなんの迷いもなく「Mちゃん!」と声をかけてきてくれたことが心に沁みました。
その日の宿泊はセレモニーホール。
伯父さんが安置されている添い寝部屋(というのか?)になぜか私も押し込まれ、男女入り混じっての雑魚寝の落ち着かなさと、人の出入りの激しさと、絶やしてはいけない線香の煙と、再発した腰痛のせいで、ほぼ一睡もできず、朝を迎えたのでした。
by kuni19530806 | 2015-04-03 12:45 | その他