くだらねえな自分、だけど。
2015年 02月 13日
義父母と暮らして、今年で丸30年だ。
結婚したのはその2年前なのだが、同居は1985年の6月からで、引っ越しの正確な日付も覚えている。
その日が自分の誕生日だったから。
義父母も夫も私も、そして同居の際に立て替えた今の家も、30年ですっかり年をとった。
そうだよなあ、なにしろ30年だもの。
義父母の健康状態はここ数年はとても不安定だが、基本的に命にかかわる病気は患っていないし、寝たきりではないし、認知症でもないので、切迫した状況ではない。
それは百%いいことだ。
でも、このところ、家での自分の精神状態はあまり良好とはいえない。
ちょっとしたことに苛立つ。ため息が出る。なんだか、家に縛られている気がする。
そういう、被害者意識に近い鬱々とした気持ちに対しての対処法はわかっている。
もうこの生活もけっこう長いから。
そして、常に鬱々しているわけではなく、特に具体的に何かがあったりしたわけではなくても、理由なく気持ちが上向くことがあるのも知っている。
それを繰り返し、言ってみれば「騙し騙し」この生活を続けてきたのだけれど、だんだんリフレッシュが効かなくなってきたみたいだ。
くたびれている。
飽きているのかもしれない。
ありがたいのは、全く体調は悪くないことと、常に気鬱なわけではないこと。
こういう状況だからこそ、定期的に家を離れる必要を感じて来年度も今の仕事を続けることにしたし、スキあらば友達に会いに、何かを見に、数時間でも出かけようと画策しているし、スポーツクラブにも週2を目標に通っている。
そして、今の自分には、本、なにより小説を読むことが必要とあらためて気づいたりもした。
世の中が本当に物騒で、きな臭く、でも、だからといって、ネットで声高に騒ぐ気にはなれない。
Twitterで、特に文章を書くことをなりわいにしている人が、自分に近い考え、心にヒットした意見をやたら次々とリツイートしていることにはなんだかとても違和感を覚える。
簡易理論武装に見える。
自分の意見じゃない分、ちょっとカッコ悪く思える。
気持ちはわからないでもないけれど、なんだか子どもの頃の自分を見てるみたい。
自分の脳裏に浮かんだ感情や考えをまっさらな状態で人に言うのは躊躇するくせに、自分と同じような意見を聞いたとたん、突然、水を得た魚のように饒舌になる。
私も前からそう思ってた!と。
後ろ盾を得て、強気になる。
たとえ、その考えや感情そのものには共感できても、その姑息さに引く。
子どもの頃の自分に大人の自分が引いてどうよ、ですが。
かといって、まったく世の中の不穏さには触れずに、世界はまるでなにも変わっていない風なツイートを繰り返す著名人にもちょっとモヤモヤとしたりする。
狡いとすら思う。
日常は日常として存在するわけだから、は理解しつつ、日常を隠れ蓑にしてないか、と思ったり。
それって、要するに、自分が動揺している、気持ちが落ち着かないってことなのだろう。
だから、振幅大きく心がざわつく。
当然だけど、家のことと世の中のことは結びついている。
今の自分の閉塞感も危機感も動揺も苛立ちも、内と外が連動してのこと、なのだ。
共鳴し合って、悪い意味で相乗効果になってしまっているような気がする。
結論を急いじゃダメなのだなと思う。
現実だけが世界の全てじゃないと思うこと、目に見えるもの、耳で聞こえるもの、はとても大事だけれど、それと、肌で感じる押しの強いものだけで世界を判断してはいけない、と折に触れ思うことが、その奥や裏側にあるものに想像を働かせることが、あらゆる意味で自分を、自分を末端構成員とする世界を、救う数少ない糸口のような気がする。
そして、そのためにはフィクションが大事だと思った。
全然上手く言えていないけれど、友人のTwitterの言葉を借りれば「他者への想像力ひとつとっても、今ほどフィクションが必要とされている時代はないんじゃないか。じっさいどんな「実用書」より実用的だと思う。そのために読むわけではないけれど結果として。」だ。
そしてそして、海外ドラマ「ビッグバンセオリー」は今の自分には強い味方だし、ネコは可愛いし、夫は情緒が安定してよく話をするし、ネガティブな話を聞いてくれる友人もいる。
好きな文章を書かせてもらってもいる。
じゃあ、あとはどうすればいいの?
私はきっと、私こそがきっと、義父母の老いを受け入れられていないのだ。
足腰が弱るとか、耳がますます遠くなるとか、物忘れが激しいとか、そういうことはいいのだ。
私が落ち込むのは、ふたりが年老いて、今まで清らかだと思っていたふたりの人間性のメッキが剥がれたような気持ちになる自分の底意地の悪さに対して、なのかもしれない。
とにかく優しかったふたりが、徐々に自分のことでいっぱいいっぱいになり、意固地になり、気分が変わりやすくなって前言撤回を繰り返す、それを毎日目の当たりにすることが哀しい・・というより、正直うんざりなのだ。
それはしょうがない、誰だって年をとればそうなる・・わかっています。
30年間暮らしてきたのだから、わかりすぎるくらいだ。
でも、温かでほがらかで穏やかなふたりが恋しい。
もちろん、その要素がすべてなくなってしまったわけじゃないし、今でも、そのへんの91才、86才に比べれば相当残っている(そのへんの高齢者に対してなんて失礼な言い草!)。
私を誰よりも気遣ってくれる。
きっと私は、25年間、甘やかされ過ぎてきたのだろうなあ。
言葉や態度で庇護されまくってきたってことなのだろう。
ちょっとしたことで感謝され、当てこすりもひけらかしもなく、恩着せがましいことを言われたことは一度もなかった。
義母はがさつでおせっかいで無神経なところもあるけれど、一貫して善意の人だ。
義父もこの上なく優しかった。
今だって、悪意のかけらもないのだ。
そう言い聞かせて受け入れるしかないのだろう。
そうは思いつつ、溜め込んでいたものをいったん外に出したく、これを書きました。
書いたらスッキリした。
くだらねえな自分、とも思った。
書いて初めて「自分はこんな風に思っていたのか」とびっくりもした。
お目汚しでスミマセン。
結婚したのはその2年前なのだが、同居は1985年の6月からで、引っ越しの正確な日付も覚えている。
その日が自分の誕生日だったから。
義父母も夫も私も、そして同居の際に立て替えた今の家も、30年ですっかり年をとった。
そうだよなあ、なにしろ30年だもの。
義父母の健康状態はここ数年はとても不安定だが、基本的に命にかかわる病気は患っていないし、寝たきりではないし、認知症でもないので、切迫した状況ではない。
それは百%いいことだ。
でも、このところ、家での自分の精神状態はあまり良好とはいえない。
ちょっとしたことに苛立つ。ため息が出る。なんだか、家に縛られている気がする。
そういう、被害者意識に近い鬱々とした気持ちに対しての対処法はわかっている。
もうこの生活もけっこう長いから。
そして、常に鬱々しているわけではなく、特に具体的に何かがあったりしたわけではなくても、理由なく気持ちが上向くことがあるのも知っている。
それを繰り返し、言ってみれば「騙し騙し」この生活を続けてきたのだけれど、だんだんリフレッシュが効かなくなってきたみたいだ。
くたびれている。
飽きているのかもしれない。
ありがたいのは、全く体調は悪くないことと、常に気鬱なわけではないこと。
こういう状況だからこそ、定期的に家を離れる必要を感じて来年度も今の仕事を続けることにしたし、スキあらば友達に会いに、何かを見に、数時間でも出かけようと画策しているし、スポーツクラブにも週2を目標に通っている。
そして、今の自分には、本、なにより小説を読むことが必要とあらためて気づいたりもした。
世の中が本当に物騒で、きな臭く、でも、だからといって、ネットで声高に騒ぐ気にはなれない。
Twitterで、特に文章を書くことをなりわいにしている人が、自分に近い考え、心にヒットした意見をやたら次々とリツイートしていることにはなんだかとても違和感を覚える。
簡易理論武装に見える。
自分の意見じゃない分、ちょっとカッコ悪く思える。
気持ちはわからないでもないけれど、なんだか子どもの頃の自分を見てるみたい。
自分の脳裏に浮かんだ感情や考えをまっさらな状態で人に言うのは躊躇するくせに、自分と同じような意見を聞いたとたん、突然、水を得た魚のように饒舌になる。
私も前からそう思ってた!と。
後ろ盾を得て、強気になる。
たとえ、その考えや感情そのものには共感できても、その姑息さに引く。
子どもの頃の自分に大人の自分が引いてどうよ、ですが。
かといって、まったく世の中の不穏さには触れずに、世界はまるでなにも変わっていない風なツイートを繰り返す著名人にもちょっとモヤモヤとしたりする。
狡いとすら思う。
日常は日常として存在するわけだから、は理解しつつ、日常を隠れ蓑にしてないか、と思ったり。
それって、要するに、自分が動揺している、気持ちが落ち着かないってことなのだろう。
だから、振幅大きく心がざわつく。
当然だけど、家のことと世の中のことは結びついている。
今の自分の閉塞感も危機感も動揺も苛立ちも、内と外が連動してのこと、なのだ。
共鳴し合って、悪い意味で相乗効果になってしまっているような気がする。
結論を急いじゃダメなのだなと思う。
現実だけが世界の全てじゃないと思うこと、目に見えるもの、耳で聞こえるもの、はとても大事だけれど、それと、肌で感じる押しの強いものだけで世界を判断してはいけない、と折に触れ思うことが、その奥や裏側にあるものに想像を働かせることが、あらゆる意味で自分を、自分を末端構成員とする世界を、救う数少ない糸口のような気がする。
そして、そのためにはフィクションが大事だと思った。
全然上手く言えていないけれど、友人のTwitterの言葉を借りれば「他者への想像力ひとつとっても、今ほどフィクションが必要とされている時代はないんじゃないか。じっさいどんな「実用書」より実用的だと思う。そのために読むわけではないけれど結果として。」だ。
そしてそして、海外ドラマ「ビッグバンセオリー」は今の自分には強い味方だし、ネコは可愛いし、夫は情緒が安定してよく話をするし、ネガティブな話を聞いてくれる友人もいる。
好きな文章を書かせてもらってもいる。
じゃあ、あとはどうすればいいの?
私はきっと、私こそがきっと、義父母の老いを受け入れられていないのだ。
足腰が弱るとか、耳がますます遠くなるとか、物忘れが激しいとか、そういうことはいいのだ。
私が落ち込むのは、ふたりが年老いて、今まで清らかだと思っていたふたりの人間性のメッキが剥がれたような気持ちになる自分の底意地の悪さに対して、なのかもしれない。
とにかく優しかったふたりが、徐々に自分のことでいっぱいいっぱいになり、意固地になり、気分が変わりやすくなって前言撤回を繰り返す、それを毎日目の当たりにすることが哀しい・・というより、正直うんざりなのだ。
それはしょうがない、誰だって年をとればそうなる・・わかっています。
30年間暮らしてきたのだから、わかりすぎるくらいだ。
でも、温かでほがらかで穏やかなふたりが恋しい。
もちろん、その要素がすべてなくなってしまったわけじゃないし、今でも、そのへんの91才、86才に比べれば相当残っている(そのへんの高齢者に対してなんて失礼な言い草!)。
私を誰よりも気遣ってくれる。
きっと私は、25年間、甘やかされ過ぎてきたのだろうなあ。
言葉や態度で庇護されまくってきたってことなのだろう。
ちょっとしたことで感謝され、当てこすりもひけらかしもなく、恩着せがましいことを言われたことは一度もなかった。
義母はがさつでおせっかいで無神経なところもあるけれど、一貫して善意の人だ。
義父もこの上なく優しかった。
今だって、悪意のかけらもないのだ。
そう言い聞かせて受け入れるしかないのだろう。
そうは思いつつ、溜め込んでいたものをいったん外に出したく、これを書きました。
書いたらスッキリした。
くだらねえな自分、とも思った。
書いて初めて「自分はこんな風に思っていたのか」とびっくりもした。
お目汚しでスミマセン。
by kuni19530806 | 2015-02-13 18:57 | その他