サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3   

村上春樹『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』を読む。

本屋さんで見かけて購入したのがたぶん夏の始め。
図書館で予約していて順番が回ってきた本などを先に読んでいたら4ヶ月ぐらい経ってしまったけれど、この時期に読めて良かったかも。
ああ、買ってあったっけ、と最近気づいたのが必然だったのかもしれないなあと思ったり。

村上春樹のエッセイって、もはや世代年代を超越した、言ってみれば様式美、みたいだ。
それは絵を描いている大橋歩さんにも当てはまる気がする。
その二人がタッグを組んだのだから、ある意味、最強。
無国籍、という言葉があるが、磐石な無世代モノとでも言ったらいいのか。
還暦を過ぎたコンビによる本とは到底思えない。
それがアンアンという、今はどうかわからないが、とりあえず四半世紀前ぐらいまでは明らかに独自のちょっとトンガったポジションに位置していた女性誌での連載から生まれている、というのは興味深い。
・・流れで書いちゃったけど、別に興味深くもないかも。

中にどんなに、携帯電話やTwitter(村上春樹さんはTwitterの魅力が全くわからないそうです。・・だろうね)や裁判員の話が出てきても、村上さんのエッセイは私の認識するリアルタイムのものではない。
あくまでも村上ワールドという特異な時間軸に存在している。
新しくてもクラシカル。

そして、日々、社会情勢や目先のことに翻弄されている小市民としては、村上ワールドに触れると相反する感情を持ったりする。
「揺るぎなくて安心する」と「能天気で気楽そうでちょっと癪に障る」。

村上ワールドはただ変わらずそこに存在する・・だけかもしれないのに、こっちの視点や精神状態で、全く違って映る。
村上ワールドに限らず、そんな存在はいっぱいあって、考えようによっちゃ、クルクル状況や気分が変わっているのは自分だけなのかもしれない。
でも、隣り合わせの電車でこっちだけ動いていれば隣が逆走しているように感じるみたいに、自分の気持ちによって、周りのいろんなことが、併走したり逆走したり一緒に止まってたり時に暴走しているように思える。

という、本の感想とはまるで言えないような感想。


しょっちゅうではなくてもいいのだけれど、ときどき、村上春樹のエッセイを読んで、揺るぎないものへの安心感と、お気楽さへの少しの苛立ち、を同時に感じるっていうのは今後も続けたい気がする。

たとえば、国の安全とか未来とか、人としての正しさとか、生きる意味とか、夢とか希望とか、マキシマム的視点(言葉の使い方が間違ってたらゴメンよ)で語られてもなかなか自分の中で素直に受け入れられないけれど、村上ワールドの半径数百メートル的ミニマムな文章でなら、それらのきっかけの、糸口の、とっかかり、みたいなものが存外に見えたりすることがある。

Twitterとかでも、ものすごくたくさんの人がリツイートしたりお気に入りに登録するような、不特定多数向けのいわゆる名言より、自分が直接間接知っている(つもり、も含む)誰かさんの、日常に直結した前後関係が想像可能なエピソードの破片みたいなつぶやきの方が自分を温かくしてくれる、のにちょっと似ているかも。

村上春樹氏の日常などあまり知らないし、彼が「そう見せようとしているもの」と実際の彼には乖離があるであろうことは明白だし、村上ワールドをミニマムな文章と受け取る自分は「わかってなくて」、まんまと本人や編集者やアンアンとかの術中にハマっているのだろうけれど、まあそれでもいいや、と思わせるという意味で、村上春樹さんはエッセイの名手だと私は思うのであった。
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by kuni19530806 | 2012-11-13 23:05 | 読書

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