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猫の客   

平出隆『猫の客』を読む。

私は、本は好きだけれどいっぱい読みたいという願望はない。
あ、ちょっと違うな。
本を読むという行為は趣味だし、読みたい本もいっぱい湧いて来がちだけれど、それを片っ端から読まないと気が済まないとか、読書量そのものを増やしたいとかの願望はない。
もちろん、知識欲に駆られて身悶えもしない。

今より目や気持ちや身体に力があった20代の方が同じ本を何度も読んでた。
初期の村上春樹(私の中で『世界の終わり・・・』まで)はどれも5回は読んでいるし、夏目漱石も藤原新也も椎名誠も橋本治も宮部みゆきも大沢在昌も逢坂剛もジェフリー・アーチャーもアーサー・ヘイリーもジョン・アービングもロバート・B・パーカーもキース・ピータースンもサラ・パレツキーもローレンス・ブロックも、折に触れ、再読してた。
っていうか、私の20代~30代前半は今挙げた作家の本しか読んでないかもってぐらいだ。
なにが言いたいかっていうと、若いときから私の読書の範囲は狭い、だ。
狭い上に偏っている。
なので、未開の地がものすごく広い。
特に児童文学と古典文学は、今の仕事で「少しは恥ずかしく思うべきじゃね?」と自分に問いかけたいほど無知です。

とにかく、新旧・洋の東西を問わず、世の中知らない作家ばかり。
今の職業上の自分の問題点は、そういう名前を聞いても「あ、知らない人」で終わっちゃうところなのかも。
ま、いまさら改心する気もないんですけどね。
読んでないのに名前だけ知ってる方が恥ずかしい気がしちゃうんだよね。

平出隆さんも全く知らない人でした。
が、今度の日曜日のために読んでみました。
良かった。
こういう経験をすると、今まで「あ、知らない人」で終わらせてきたことで、宝石が自らこっちの掌に落ちてくれたのに掬い取ることなくみすみす逃してきたんだなあと思ったりします。
・・ちょっとブンガク的な表現を使ってみようとしたが文章的に失敗。

『猫の客』は静謐で繊細で美しい小説です。
<はじめは、ちぎれ雲が浮かんでいるように見えた。>なんて出だしはふつう書けません。
うっかり思いつくことはできますが、こんな出だしに見合った世界を1編に作り上げることは容易じゃない。
それこそ、出だしだけが「浮かんでいるよう」な小説になっちゃいそう。

この小説を読むと、生きとし生けるもの(人間や猫ばかりでなく、庭や草木や家や小窓の風景、世情すら)に抱く感情が無数にあるというあたりまえの事実に思い至り、しばし呆然とします。
実は、語り手(一人称は一度も出てこない)にも妻にもチビという猫にも、私はすっかり感情移入することはできず、でも、感情移入する登場人物がいない小説にふだん感じる「つまらなさ」は微塵もなく、読んでいる間は、直接描かれない動きや気持ちまでありありと感じるような、想像力と括るとちょっと違う、強いていえば感応力みたいなものが研ぎ澄まされた気分の時間だった。
ひとつの出来事や事象(←同じか)に対しても、とおりいっぺんの感情じゃなく、むしろあえてよけいな判断は下さないという方向の振幅のある感応力。

でも、その「感じ」がなんだか、日曜日にお目にかかる、この小説を好きだとおっしゃってる方に影響されているというか迎合しているような疑いもあって、思わずもう1回最初から読み直してみたりしたのだ。
2回目の方が面白かった。

で、この日記の前半に繋がるわけです。
狭くても偏ってもいい、また昔のように同じ本を何度も読もうかな、とか思ったりしたので。

それにしても、この本の表紙はなんなんだろう。
ネットで調べればわかるのかもしれないけれど、それはしたくない感じ。
・・わからない。

それと、この小説を読んだら梨木香歩さんの『家守奇譚』を思い出した。

相変わらず、ナンノコッチャ?な感想文でした。
猫の客_a0099446_230399.jpg

by kuni19530806 | 2011-11-04 23:02 | 読書

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