伯父の訃報4   

まりちゃんのお店の入店の儀式はいつもと同じ。
ドアを開けると、まりちゃんが元気に「いらっしゃいませ」と言い、私が「まりちゃ~ん!お久しぶりです」と厨房に声をかけて、「Mちゃん!なんだべ!いっつも急に」と言うお決まりのやりとり。
今回もそうでした。
ただ、今回は前回からあまり間があかず、しかも最近は携帯でやりとりもしているので、そんな中、連絡もせずに急に来た私をまりちゃんがちょっといぶかしがるように「なんかあったの?」と。

「あったんだよ~。去年の秋、ここに来たときに一緒にお夕飯を食べた伯父さんが急に亡くなっちゃったんだ」
それに対してのまりちゃんの返答は「うぢのおかあちゃんもだよ~」でした。
え~!?((((;゚Д゚))))

去年の秋、友人3人と喜多方に行き、まりちゃんのお店で伯父伯母従兄と会食をしたことはこの日記にも書きました。
伯父はまるで生き仏か仙人のようで、ニコニコ元気に微笑んでいましたが、まりちゃんのおかあさんもちらっと元気な姿を見せてくれたのでした。
風邪気味で「みなさんに伝染しては申し訳ない」と近くには来ませんでしたが、声は力強く、いつもの「まりちゃんのおかあちゃん」でした。
そのまりちゃんのおかあさんが?
まりちゃんのおかあさんも?

そうだよー。2月に急に。
病気があるのはその前にわかったんだけど、トイレで倒れただあー。
とのこと。
82才だったそうです。
なんてことでしょう。

まりちゃんの甘味処は、まりちゃんとおかあさんでやっていました。
メインはまりちゃんですが、繁盛しているお店なのでひとりでは切り盛りしきれず、おかあさんが手伝っていました。
かきいれどきの夏場は人を雇ったりもしていたようですが「やっぱ、気つかうべ。だがらなるべく自分でやりっちだ。おかあちゃんも手伝ってくれっから」と言うのを聞いたことがあります。

大変だったね、まりちゃん。
そして、これからも大変じゃないか、まりちゃん。
私が泣きそうになりながら言うと、彼女は「大丈夫だあ。今は気が張って大丈夫なんだべって言われっけど、Mちゃんのことどか思い出してんだよ、私」
あたし!?

そうだあ。
お母さんの看病をしに喜多方に帰って来たときの頑張ってるMちゃんを見てっから、私。
あんどき、ああ、自分にもいつかこういう日が来るんだなあって思っただ。
Mちゃんのお母さんはちょっと早すぎだけど、あのどきのMちゃんを見てて、なんかこういう言い方もへんだけど、自分もそういうときが来ることがイメージできたの。
あれがら、いろんな友達の親が亡くなるのを見て、少しずつ覚悟してきたっていうか、後悔しないようにお母ちゃんに優しくすっぺど思ったり、病気がわかったどきも、迷わねで「在宅で、店をやりながら看ます」って言ったんだよ私。
お母ちゃんも入院したくねえって言ってたし。

夜、ひとりで寝でっと不安になって「やっぱり病院にお願いした方がいいがも」と思ったりもしたけど、店の隣の部屋でお母ちゃんを看る方が病院と往復するより自分には合ってるって思ったし、そのためには体力つけなきゃど思って、スクワットとかピラティス始めただ。
そういうのに詳しいお客さんに教えてもらって。
足に筋肉もついただよー。
お母ちゃんには活かせなかったんだけど。


まりちゃん、エラいね。がんばったねえ。

んだよー、がんばってっぺ。
なんで自分にはいろいろ降りかかってくんのがなーと思ったりすっけど、わたしは大丈夫だ。
お店があるがら救わっちる。

私、母親のときはこのお店にしょっちゅう来て、弱音ばっかり吐いてたなあ。
恥ずかしいよ。

んなごどねえよ。
わたし、Mちゃんがあんどき言ったことどか、すごく覚えてて、今回もいっぱい思い出したんだよ~。

時間はあっという間に過ぎました。
まりちゃんに駅まで車で送ってもらい、私は東京に帰って来ました。
2日間、あまりにいろいろな濃い感情を味わったので咀嚼しきれず、列車に乗るやいなや目を閉じ、まるで記憶を遮断するように、うつらうつらしながら東京に戻ってきたのでした。

終わり


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# by kuni19530806 | 2015-04-05 16:30 | その他

伯父の訃報3   

眠れずに朝を迎えたとはいえ、告別式の朝はお天気もよく、寒すぎず、爽やかでした。
セレモニーホールには20人からの親族が宿泊して賑やか。
故人の妻である伯母が11人兄弟ということもあって、顔の知らない親族もいっぱいいました。

告別式は朝9時半から。
最初に聞いたときは「早っ!」と思ったし、実際、その時間開始で日帰りはムリなので一泊にしたのですが、泊まったら泊まったで、みんな朝は早いし、大勢がうろうろしていて落ち着かないし、結局、8時には宿泊者のほとんどが会場前のラウンジに集合してしまい、地元の参列者も1時間前ぐらいから続々とつめかけ、「1時間前倒しで始めてもいいんじゃね?」ぐらいの雰囲気になりました。

喜多方で生まれ育ち、戦争に行き、無事帰り、喜多方で酒屋を継ぎ、結婚し、子どもを育て、隠居し、喜多方で逝った伯父だったので、たくさんの人が告別式に来ました。
同級生はもう少なかったかもしれませんが、とにかく、お焼香の列が長く続く告別式でした。
孫達がひとりひとり別れの言葉を述べました。
全員に「じいちゃん」と呼ばれていた晩年の伯父は、なんだか生きている間もすでに仏様みたいな雰囲気でした。

告別式の親族の席順は決まっていて、イスに名前を書いた紙が貼ってあったのですが、私は2列目で、伯父の孫の隣でした。
私の後ろに、伯父の妹である叔母とそのご主人。
私より年長の従兄も私の後ろです。
あれ?これでいいの?私、前過ぎない?

途中で気づきました。
私が座っている席は、母親が生きていたら座っていたであろうT橋家の長女の席だと。
母親は40年近く前に離婚して実家に戻り、自分の兄(伯父)より15年も早く死んでしまい、その息子である私の兄も9年前に逝ってしまった。
私は、自分の母親と兄の代わりに伯父の葬儀に来た意識は全くありませんでした。
それでも、結果的に、私は母親と兄の代理という役割でもあったのだ、とそのときはじめて気がつきました。
生きているということ、生きていくということは、先に逝った人間の分も生きるということなのだなあ・・途切れないお焼香の列を眺めながら、そんなことを考えていました。

告別式が終わり火葬場へ。
15年前の母親のときも同じ火葬場でした。
当時と全く変わらない建物を見てあらためて、伯父と母親、たぶん祖父母もこの同じ場所で灰になって空と大地に還っていくのだなあと思いました。

私の伯父の法要はここまで。
そのまま、なるべく早い列車に乗って東京に戻るつもりが、時刻表を見ると、約2時間先まで電車がありません。
それじゃあここに行くしかないと、友人まりちゃんの甘味処に寄ることに。
そこで私はとても驚かされることになります。

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# by kuni19530806 | 2015-04-05 14:58 | その他

伯父の訃報2   

会津では法要時に「歌詠み」という風習があります。

会津にある三十三観音、それぞれの歌を、独特の節に合わせて、隣組の有志の叩く鐘に合わせ、関係者こぞって唱和するのです。
たぶん無尽講と縁があるような風習だと思います。
きっと会津に限らず、いろんなところでやっているのではないかと思われます。

今回も、お通夜の前にきっちり行われました。
これはけっこう長く、節が間延びしていて眠くなる感じだし、三十三だけかと思いきや、番外編もあり、子どものときは苦痛でした。
座りっぱなしなので足もしびれるし。

現在は、地方も自宅での法要が減り、よって畳に正座することもなく、足のしびれ問題は解消されつつあります。
若いときと違って、詠まれる歌の意味にしみじみしたりもします。
そうとなれば、情緒のある風習に思えるものですね。



歌詠みに続く通夜は、会津の場合、親族とごくごく近しい人だけで行われ、友人知人はほとんど来ません。
通夜ぶるまいで、こじんまりと故人を偲ぶ習わしです。

そして私はそこで、おもいがけない人から声をかけられたのでした。



伯父は、約50年間、喜多方で酒屋を営んでいました。
今は親族に店を継ぐ人がいなくて権利を他の人に譲ってしまいましたが、そもそも祖父は酒をつくる杜氏をしながら酒屋をやっていて、長男である伯父が店を継いで、昭和の時代を生き抜いたのでした。

伯父の二人の息子はどちらも医者になりました。

国立の大学とはいえ、息子(年子)を同時期に、親元から離れた場所の医学部に通わせることは、伯父伯母にとっては経済的にかなり大変だったと思います。

このふたりの兄弟が、本当に笑っちゃうほど仲がよくて、子どもの頃から一緒に肩を組んで学校に通っていたとか、片方が医者を志すと決めたら、もう片方がせっかく入った国立大学(当時は一期校と呼ばれていた)を辞めてしまって、同じ大学の同じ医学部をめざすことにした、とか、とにかく仲良しエピソードに事欠きませんでした。

そういえば、ふたりが中学生のとき、親は忙し過ぎて子どもに対して干渉する余裕もないのに、ふたりともよく勉強が出来て、しかも運動部でも頑張っていて、休みとなれば楽しそうに酒の配達の手伝いをしていることを知ったふたりの中学校の校長先生が、どんな子育てをすればそんな子が育つのか、伯父のところに「取材」に来たことがある、と聞いたことがあります。

・・でき過ぎてウソくさい、いやらしいほどの話ですが、本当にそうだったんだよなあ。

私から見れば、子どもの頃は他の従兄より田舎臭い、ヘラヘラしたふたりに見えたけれど、親が必死で働いている姿を目の当たりにし続けることの威力はすごいのかもしれません。
夏休みは当然のようにふたりは親を手伝ってた、そういえばホントにそうしてた。


今も営業中のT酒店。
「夢心」は、祖父が杜氏をしていたお酒の名前です。↓↓
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私が高校生の頃の伯父の酒屋で従業員をしていたのが、当時、30代ぐらいだったタナカさん。
声をかけてくれたのはそのタナカさんでした。

「Mちゃんだべ?覚えでっかよ?」と言われ、すぐに思い出しましたが、私はタナカさんとは高校卒業以降、一度も会っていないし、正直、私はタナカさんのことを、以来一度も思い出したことがないし、まさか先方も私のことを覚えているとは思いませんでした。
「タナカさん!よく私のことを覚えててくれましたね」と心底ビックリして言うと、「そりゃー、覚えでるよお。変わってねえものお」と。

えっええぇーーー!?
変わったべしたあ!
35年以上も経ってんだがらああ(思わず会津弁)。

続いて、もうひとり私に声をかけてきた男性がいました。
「Mちゃん、僕のこと、覚えでっかよ?」
「Mクン!」
私が高2の春休みにアルバイトをした時計屋(伯父の奥さんの実家)の息子Mクンでした。
彼は私より2才下の、いつもニコニコしている男の子でした。
「私のこと、覚えていてくれたの~?」
「うん。ウチでアルバイトしてだべえ。そりゃー、覚えでるよお。変わってねえものお」

ん?最近、いや、つい今しがた聞いたようなセリフ。
あの、しつこいようですけど、35年ぶり以上なんですけど。その間、一度も会ってないんですけど。

でも、タナカさんとMクンに声をかけられて本当にうれしかった。

高校の同級生や近しい親戚以外にも、35年の時を経ても自分を記憶にとどめていてくれた人がいるとわかることが、こんなにも心に灯をともしてくれる心持ちになることとは。

それは私の、ちょっと独特の環境での高校時代のせいもあるのかもしれませんが、既に親がなく、帰るべき実家はない喜多方を遠くに感じるばかりのここ数年だったからこそなおのこと、二人がなんの迷いもなく「Mちゃん!」と声をかけてきてくれたことが心に沁みました。

その日の宿泊はセレモニーホール。
伯父さんが安置されている添い寝部屋(というのか?)になぜか私も押し込まれ、男女入り混じっての雑魚寝の落ち着かなさと、人の出入りの激しさと、絶やしてはいけない線香の煙と、再発した腰痛のせいで、ほぼ一睡もできず、朝を迎えたのでした。
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# by kuni19530806 | 2015-04-03 12:45 | その他

閑話休題   

花粉の時期、お腹がゆるくなって困ります。
ここ数日、特にお腹が不穏です。

ネットで調べると、体内に入った花粉が胃腸の粘膜に付着して胃腸症状が出ることもある、的な記載があります。
周囲にも、同じ症状を訴える人がいます。

私は、それが花粉の症状なのか、服用している鼻炎薬の副作用なのか、花粉症の時期はどうしても自律神経が乱れがちになるのでそのせいなのか、ずっとわからず、今も実際のところはわかりません。

今回は、3月の初旬から腰痛があり、何度か鎮痛剤のロキソニンを服用したし(鼻炎薬とはズラした。そして今は腰痛からは開放された)、喜多方に行って、不規則でジャンキーな食事をしたり、喪服で足が冷える自覚もあったし、で・・もう、原因候補が多すぎる!

明日は丸一日研修なのだけれど、下痢止めを飲んで行くべきか迷い中。
勝手にトイレに行けないしなあ。

ふだんはなるべく薬をのまないようにしていますが、花粉の時期は一年分、のんでるかも。
ああ、やだやだ。
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# by kuni19530806 | 2015-04-01 16:34 | その他

伯父の訃報   

3月28~29日で喜多方に行ってきました。

母方の伯父が亡くなったのです。
90才という年齢ですし、心臓に持病を持ち、今までニ度、なぜかどちらも旅行先で倒れたとのことなので、傍目には「ある程度の覚悟はしていただろう」ですが、覚悟なんてできないもんです。
それは自分の経験でもよくわかる。

伯父は、自転車に乗って近所のスーパーに行くのを日課にしていたようで、その日も出かけ、スーパーの駐輪場で倒れ、そのまま逝ってしまったのでした。

救急車が到着し、心肺停止状態であることがわかると、救急車は近隣の中心都市である会津若松市の大きなA病院に連絡をとり、そこからドクターカーを走らせてもらい、途中で合流して、伯父はドクターカーの中で専門的な蘇生処置を施されたようです。
それでも残念ながら戻ってくることはなかった。

伯父が住所や名前や連絡先を携帯していたことと、伯父の長男(私の従兄)Rちゃんは地元で小児科医をしていて、偶然にも週に一回A病院の小児科で診察を受け持っていたことで、Rちゃんのところにはドクターカーから直接連絡が入り、蘇生が叶っていないことを知らされたそうですが、Rちゃんは、近所に住む自分の母親にはそのことを電話では伝えられず、ただ「お父ちゃんがスーパーの店先で倒れて救急車でA病院に向かっている。今から車で迎えに行くから、お母ちゃんも準備して待っていて」と言ったそうです。

それを聞いた伯母は、自転車で転倒してケガをしたのだろうと思い、まさか心肺停止とは思わず(当然です)、入院の準備をせねば、と、下着や洗面道具を集めはじめたそうですが、それが終わらないうちに息子の車が到着し、「まだ入院の準備ができないからもう少し待っててくれ」と言ったとのこと。
Rちゃんはそれを聞き、意を決して「お母ちゃん、その用意は要らないと思うよ」と告げると、伯母は一瞬きょとんとした顔をし、「そうか。わかった」と答えたそうです。

そして車は30分ほどでA病院に到着。
連れて行かれた場所は、診察室でも手術室でも集中治療室でもなかった。
そして部屋に入って、あまりのことに驚き言葉を失った伯母。

そう。
伯母の「わかった」は、Rちゃんの意図したことを察したのではなかったのでした。
入院の必要がない軽いケガ、もしくは、A病院は病院で指定された入院着や洗面道具しか使わせてもらえないのかと思った、だったようなのでした。
なんだか、そういう「非常時はことさら自分にしっくりする解釈をついしてしまう」ってものすごくわかる。



去年の11月、私は急に思い立って、友人3人と喜多方に行き、伯父伯母、Rちゃんと一緒に夕食を食べました。
それまでは何年も喜多方には行っていなくて、伯父にとって私はイチバン不義理な姪だったのに、そんな私が、甥姪の中で元気な伯父に会った最後の人間になったのでした。

去年の11月の伯父はとても元気そうで、終始ニコニコしていました。
私に「元気でやってるか。うんうん。ならいいんだ」と言った伯父。
一緒に喜多方に行った友人のひとりが、会食の数分間を動画に撮影してくれました。
そこには、好々爺の見本みたいな伯父が映っています。
行ってよかった会えてよかった動画を撮ってもらってよかった。


今回、連絡をもらい、義母のデイサービスへの送り出しを済ませ、土曜日の午後に喜多方に到着しました。
そのままタクシーでセレモニーホールに行くと、ちょうど納棺式が始まったところでした。
そこには、見慣れない若者がたくさん。
全員、伯父の孫でした。

伯父にはRちゃんを筆頭に、Hちゃん(男)、Fちゃん(女)と3人の子どもがいますが、3人にはそれぞれ、2人、3人、3人の子どもがいます。
少子化のこのご時世にはめずらしいことに、伯父は8人の孫がいたのでした。

末っ子のFちゃんが私より2才年上なので、その子供たちもみな20代~30代前半。
伯父にはひ孫もふたりいて、どちらも最近生まれたばかり、そのうちのひとりRちゃんの長女のAちゃんの子どもは、伯父が亡くなった翌日に初めてひいおじいちゃんに会いに来る予定だったそうです。
伯父はそれを心待ちにしていて、認知症でもないのにそれまでの一週間は毎日伯母に「Aと子どもはあと何日で来るのか」と聞いては呆れられていたそう。
今回倒れたスーパーも、伯父は、やって来る孫とひ孫のために何か買おうとして行ったのではないかと言われています。


Aちゃんは18才まで喜多方で暮らしていました。
15年前、私の母親が喜多方の病院で危篤状態になったとき、夜中だというのにRちゃんと一緒に病院に駆けつけてくれて、私の母親の足をずっとさすってくれたのが、当時高校生だったAちゃんでした。
それ以来、15年ぶりに会うAちゃんは、顔立ちは高校生のままながら獣医になっていて、乳飲み子を抱きながら号泣していました。
(続くかも 続かないかも
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# by kuni19530806 | 2015-03-31 21:34 | お出かけ