<   2012年 11月 ( 7 )   > この月の画像一覧   

房総のローカル線日帰りの旅(画像ふんだん)   

職場の同僚、計5名で房総のローカル線日帰りの旅へ(←今、ネーミングを決めた)。

わが社には優秀なツアコン企画担当がいるので、それに乗っかり、自分はノープランで参戦。
いや、でも、小湊鉄道、いすみ鉄道には一度乗ってみたいとずっと前から思ってたのだ。
そして紅葉狩りには絶好のシーズン。

五井にほぼ10時着の電車内で集合して、お弁当を買い、そこからは1両編成の小湊鉄道
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そして2両編成のクリスマス仕様に車内がディズプレイされたいすみ鉄道を乗り継ぎ、外房線の大原に出た。

途中、小湊鉄道の養老渓谷駅
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こちらは駅前
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で念願の足湯へ。
気持ちよかった~~~♨♨
写真はわが社の優秀なプランナーが撮ってくれた私の秘蔵(笑)足湯画像。
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夜まで足が温かかった。
駅猫もいた。
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足湯浸かり後は、空模様が、小雨から土砂降り&強風という台風的な様相を呈し出し、いすみ鉄道乗車中はほとんど車窓から紅葉が拝めない状況に。
でも、いすみ鉄道のムーミン電車は、窓にキャラクターがいっぱいだったし
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揺れはけっこう激しかったものの、車内はぽかぽか快適のほぼ貸切状態だったので、気持ち良くて、ついついうとうとしてしまった。
弁当でお腹いっぱいの上に、足湯で体内の毒素が排出されたせいか、心地よく気怠かった。

お天気のせいで、予定していたコースいくつかは諦めざるを得なかったけれど、5人でくだらないことをしゃべったり黙ったり居眠りしたり、そして何より電車に乗ることを満喫できたので、とても楽しかった。

私は1、2両編成のローカル電車が好きかも。
好きっていうか、乗るとやたら郷愁を感じる。
子供の頃、まだ小学校に入るか入らない当時、私は福島県伊達郡梁川町(現在の伊達市)というところに2年間住んでいたのだが、梁川町と福島市はけっこう長い距離、路面電車で結ばれていた(今、調べたら全長31.5キロだそうな)。
当時、母親の趣味(?)で、月1ペースでそこを往復して福島市の中合デパートに通ったものだった。
そしてその後、引越しして小学校2年生~中学校卒業まで住んでいた福島市北部地域は、「飯坂電車」と呼ばれる福島交通の鉄道が走っていて(今もある)、そんなこんなで、ローカル電車に思い入れがあるのかも。

乗っているだけで満たされる感じ?
ま、今回は満たされ過ぎて寝たけどね。

大原に着いたら、嵐のせいで外房線が止まりかけていて、1時間半以上、足止め。
でもそれさえも楽しかった。

同僚の方々、ありがとう!
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by kuni19530806 | 2012-11-26 23:34 | お出かけ | Trackback | Comments(0)

本にだって雄と雌があります   

小田雅久仁『本にだって雄と雌があります』(新潮社)を読む。

全く存じ上げない作家でした。
人に「どんな本が好き?」と聞かれることがたま~にあって、どんなって言われてもなあと思い、返答に窮する感じでとりあえず「雑食」と答えるときがありますが、なんでも読むとかオールマイティでは決してないな、私。
どっちかというと、「雑食と見せかけた偏食」の方が正しいかもしれない・・うん、今度からそう言おう、滅多に聞かれないけどね。

なにが言いたいかというと、私はいわゆるファンタジー系はあまり読みません。
そんなこともあって、小田雅久仁さんという作家はノーマークでした。
誰にも聞かれてませんが、ついでに言うと、SFもあまり読まない。
さらに言い募ると、時代小説や恋愛モノも、好きな系統はジャンル全体のごくごく一部で、とりたてて好物とは言えないような気がします。

以上のように、まるで「肉は嫌い。でも魚だって特に好きじゃないし、野菜だって美味しく料理されてれば食べるけど所詮副菜だしさあ、強いて言えば好物は大豆系?」みたいな、クソ忌々しい偏食女子のような読書生活を送っている自分は、その自覚がある分、自分をたいして本好きとは思っていません。
読書は趣味ですし、自分が好きな本を読むのはそりゃあ好きですが、好きなのは自分が好きな本だけで本全体では(たぶん)ないので、本界隈そのものに熱い思いのある方に対しては、憧憬と畏敬と引け目と若干の苦手意識をブレンドさせた感情を持ちがちです。
もちろん、人によりますけど。

この『本にだって雄と雌があります』をかなり面白く読んだので、ついつい巷(ネット)の感想をいろいろ読んだところ、「本好きにはたまらない小説」「世の本好きにこそ読んで欲しい小説」的な文章が何個もあり、正直「ちっ!」と思いました。
この小説は、本の蒐集家が蒐集家ゆえにアレしてああなってこうなってコレしちゃう話なので、「本好きにこそ・・」云々の感想は全くもって正しい。
おっしゃるとおりです。
ならばなにゆえ、「ちっ!」なのかというと、自分は多くの人がそういう感想を書くような小説は普段なら避ける派だからです。
なぜなら、そういう感想を引き出すような小説ってなんかつまらなそうという偏見がある。
自分で書いてて言いがかりっぷりにも程があると思いますが、なんだかちょっとテンションが下がるっていうの?

その手の感想を書く人々っていうのはきっと自分のことも本好きだと思っていて、だからこそ、同好の士にお薦めしているのだろうけれど、この小説の序盤は、時系列がとっちらかった、まるでちょっとメンドくさいタイプの人間の脳内ダダ漏れ風も否めない印象なので、「本好きこそ・・」という推薦文はむしろ、序盤での挫折を助長してないか、とか。
要するに、本好きを自称してる一癖も二癖もある小説を読みこなす読書体力のある輩しか読む気にならないハードル(障害物)ありの小説なのかも、と誤解されそうで心配。

実際はそんなことはありません。
たとえ序盤で挫折しそうになっても、中盤以降はぐいぐいイケます。
「本好きにこそ読んで欲しい小説」というより、私なら「あらゆる感情を味わいたい人に読んで欲しい小説」と言いたいかも。
くだらなかったり、切なかったり、息苦しかったり、愉快だったり・・驚いたり悲しんだり安心したり諦めたり懐かしかったり愛おしかったり圧倒させられたり、しました。
あ、序盤はちょっと挫折しそうになったり、もしたから、その感情も味わえた。
でも、私は43ページの<「長年もてはやされた理性なるものが、いくらか目先の利く欲望の一形態に過ぎぬ事かいよいよ明らかにな」り、>という一節がやたら心にヒットし、その後はどんどんいろんな一節がヒットしたのでした。

とにもかくにも
ああ、面白かった、です。
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by kuni19530806 | 2012-11-23 22:30 | 読書 | Trackback | Comments(4)

湿地   

アーナルデュル・インドリダソン『湿地』(東京創元社)を読む。

アイスランド人によって書かれたアイスランドが舞台のミステリー。
アイスランドの土地柄というか国民性というかが色濃く醸し出された小説、のような印象を受けるけれど、そもそもアイスランドに対する知識といえば、首都がレイキャヴィク、メルカトル図法に騙されてきたけれど意外と小さな島、そしてビョーク、ぐらいしかなく、下手すりゃ、エンヤってアイスランド?ぐらいのことを言いかねない自分なので、この小説で知り得た付け焼刃感丸出しのアイスランドをもってして、「アイスランドという異郷が舞台だからこそのミステリー」と言ってしまっていいものか、ちょっと疑問。
ただ、つい「ああ、アイスランドゆえね」と知ったかぶってしまいたくなる強い磁場みたいなものは小説の随所に漂っていて、それが独特の風味というか、このミステリーの個性になっていることは間違いないと思う。

伏線が張りめぐらされているとか、どんでん返しが待っているというタイプのミステリーではない。
どちらかというと単調。
とにかくやるせなく、暗く、重い。
真相にも、それを追う警察官の姿にも、ついでに気候風土まで、希望の光がほとんど感じられない。
じゃあ、陰気なだけのつまらない小説だったか、というとそうではなく、中上健次的というか、森村誠一の『人間の証明』的というか、力のある小説だとは思った。
好き、とは言い難いけれど。

この小説を読みつつ、一方で小林まことの『1.2の三四郎』も読んでいたのは、自分で無意識にバランスをとろうとしてたのだろうか。
そんなこともないか。
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by kuni19530806 | 2012-11-16 22:03 | 読書 | Trackback | Comments(0)

サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3   

村上春樹『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』を読む。

本屋さんで見かけて購入したのがたぶん夏の始め。
図書館で予約していて順番が回ってきた本などを先に読んでいたら4ヶ月ぐらい経ってしまったけれど、この時期に読めて良かったかも。
ああ、買ってあったっけ、と最近気づいたのが必然だったのかもしれないなあと思ったり。

村上春樹のエッセイって、もはや世代年代を超越した、言ってみれば様式美、みたいだ。
それは絵を描いている大橋歩さんにも当てはまる気がする。
その二人がタッグを組んだのだから、ある意味、最強。
無国籍、という言葉があるが、磐石な無世代モノとでも言ったらいいのか。
還暦を過ぎたコンビによる本とは到底思えない。
それがアンアンという、今はどうかわからないが、とりあえず四半世紀前ぐらいまでは明らかに独自のちょっとトンガったポジションに位置していた女性誌での連載から生まれている、というのは興味深い。
・・流れで書いちゃったけど、別に興味深くもないかも。

中にどんなに、携帯電話やTwitter(村上春樹さんはTwitterの魅力が全くわからないそうです。・・だろうね)や裁判員の話が出てきても、村上さんのエッセイは私の認識するリアルタイムのものではない。
あくまでも村上ワールドという特異な時間軸に存在している。
新しくてもクラシカル。

そして、日々、社会情勢や目先のことに翻弄されている小市民としては、村上ワールドに触れると相反する感情を持ったりする。
「揺るぎなくて安心する」と「能天気で気楽そうでちょっと癪に障る」。

村上ワールドはただ変わらずそこに存在する・・だけかもしれないのに、こっちの視点や精神状態で、全く違って映る。
村上ワールドに限らず、そんな存在はいっぱいあって、考えようによっちゃ、クルクル状況や気分が変わっているのは自分だけなのかもしれない。
でも、隣り合わせの電車でこっちだけ動いていれば隣が逆走しているように感じるみたいに、自分の気持ちによって、周りのいろんなことが、併走したり逆走したり一緒に止まってたり時に暴走しているように思える。

という、本の感想とはまるで言えないような感想。


しょっちゅうではなくてもいいのだけれど、ときどき、村上春樹のエッセイを読んで、揺るぎないものへの安心感と、お気楽さへの少しの苛立ち、を同時に感じるっていうのは今後も続けたい気がする。

たとえば、国の安全とか未来とか、人としての正しさとか、生きる意味とか、夢とか希望とか、マキシマム的視点(言葉の使い方が間違ってたらゴメンよ)で語られてもなかなか自分の中で素直に受け入れられないけれど、村上ワールドの半径数百メートル的ミニマムな文章でなら、それらのきっかけの、糸口の、とっかかり、みたいなものが存外に見えたりすることがある。

Twitterとかでも、ものすごくたくさんの人がリツイートしたりお気に入りに登録するような、不特定多数向けのいわゆる名言より、自分が直接間接知っている(つもり、も含む)誰かさんの、日常に直結した前後関係が想像可能なエピソードの破片みたいなつぶやきの方が自分を温かくしてくれる、のにちょっと似ているかも。

村上春樹氏の日常などあまり知らないし、彼が「そう見せようとしているもの」と実際の彼には乖離があるであろうことは明白だし、村上ワールドをミニマムな文章と受け取る自分は「わかってなくて」、まんまと本人や編集者やアンアンとかの術中にハマっているのだろうけれど、まあそれでもいいや、と思わせるという意味で、村上春樹さんはエッセイの名手だと私は思うのであった。
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by kuni19530806 | 2012-11-13 23:05 | 読書 | Trackback | Comments(0)

マロのいない冬   

マロのいない冬が来る。
14年間一緒に暮らした雑種マロが死んだのは去年の大晦日の夕方だった。
なので、年明けからこっちはマロのいない冬を既に過ごしてきたわけだが、11月もなかばになり、先週から火曜日の夕方に「雪やこんこん」の音楽を鳴らした灯油販売の車が回ってくるようになり、あらためて思う。
マロのいない冬が来るのだ、と。

マロは玄関先に灯油のおじさんが来ると決まって吠えた。
でもそれは威嚇ではなく臆病ゆえだった。
おじさんが優しいこともマロは知っていた。
その証拠に、最初は尻尾も振り気味におじさんを迎えるのだが、おじさんがマロのテリトリーの中に入ってくると、我慢できずに「わん!」と吠え、その後は後ずさりしながら吠え続けるパターンを繰り返した。
家族が「ほら!吠えないの!」と叱ると、「わかってるんだけどさー」と言わんばかりに上目遣いでこちらを見上げ、でもたまらず「わん!」と言った。
それがほぼ毎週火曜日、繰り返された。
今年になって、最初に灯油販売が来たとき、おじさんは明るく「あれっ?今日はわんちゃんが珍しく静かだねー」と言った。
いつもおじさんとよく話をしていた夫の母が困った顔をして口ごもったので、私が代わりに「死んじゃったんですよ」と言った。
マロが死んでしまったとき、いちばん気丈な立ち振るまいをしていたのが母だったので、母が口ごもったことに私は一瞬動揺した。
ささいなことなのだけれど、かなり動揺した。

マロのいない1月2月を過ごし、冬が終わり、花粉が飛び、桜が咲き、ぬくぬくした本格的な春になり、梅雨をやり過ごし、酷暑にうんざりし、ああ秋だーと空を見上げ、自分が失業することが決まり、ああそろそろ冬が近いなあ、というところまで来た。
もうすぐマロのいない冬だ。

もうマロのいない日々を三百日以上やっているのに、今また新鮮な不在感が募る。
お腹の下で足を温めてもらうことも、悲しいことや腹立たしいことがあったときに愚痴を聞いてもらうことも、なにより「雪やこんこん」のメロディとセットのようなマロの「わん!」を聞くことも、もう叶わないのだなあ。

私、3月で仕事辞めちゃうことにしたんだよ。
ねー、聞いてる?!
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by kuni19530806 | 2012-11-13 18:05 | その他 | Trackback | Comments(2)

小野寺の弟・小野寺の姉   

西田征史『小野寺の弟・小野寺の姉』を読む。

最近、姉弟の話づいてる。
益田ミリ『僕の姉ちゃん』とか、よしながふみ『フラワー・オブ・ライフ』とか。
このふたつはマンガだし、人物設定の柱以外、特に似てる話ではないのだけれど、私にとって『小野寺の・・』を含むこの3作は妙に「同じ」印象。
それだけ、自分にとって姉弟モノは他とは違う、際立つ色で感じられるジャンルなのか?とも思ったが、よくよく考えるとそうじゃない気がする。
実際、この3作は似てるんじゃないか。

特にこの『小野寺・・』と『僕の姉ちゃん』はよく似てる。
すごくベタで表層的に言えば、「家の中では強気でけっこう毒舌で弟をこき使い振り回す姉。そして、いまどきの言葉だと『草食系』で、思ったことの半分も口にせず、時々文句は言いながらも基本的には姉に従順というポジションに甘んじている弟。」だろうか。
表層的とは断ったが、この2作のファンが読んだら「うわっつらで括るにも程がある!」と怒られそうだ。

『僕の姉ちゃん」は、シニカルで的確な視点と分析、それを社会ではなく家の中で表現する様子(態度、言葉の選び方、相手が弟だという安心感)がリアル過ぎる姉と、それを絶妙に聞き流し、躱す、善良であたかも全女子(!)の緩衝材的理想の弟、が魅力のマンガだと思ったが、『小野寺の弟・小野寺の姉』は、それにもうちょっと加湿器をあてた感じ、のような。
湿度が違うだけで、もともとは同じ素材、という感じ。

『小野寺・・』は、全ては語られないものの、二人で暮らしてきた歴史とか、双方の双方に対する思い(やり)とか、お互いの仕事や異性のことも組み込み、『僕の姉ちゃん』より社会性と叙情性を加味したことで、終盤はグッとくる話になっている。
悪口は言いづらい小説。
でも私はあまり好みではなかった。

自分はつくづく、「悪口を言いづらい小説」が好みじゃないらしい。
具体的な理由あれこれより、そういう雰囲気を醸し出される、というか感じた、時点でもうちょっと苦手、みたいな。
いやはや、申し訳ござらん。

誤解を恐れずに言うと、兄弟愛みたいなものがモチーフになっている小説って全般的に好きじゃないかも。
兄弟(兄妹、姉弟、姉妹)愛の存在を否定するわけではもちろんないけれど、それが小説のテーマになった瞬間、若干の気色悪さを感じるのだ。
なんかさ、落としどころへの作者の持って行きかたが予想できるし、よしんば予想が外れたとしても、それはそれで「してやったり感」が行間から立ち昇るっていうか。

特に、常日頃はそっけなかったり疎ましく思ったり関心すらないような描写を重ねていたのに、いざとなったら「大事に思ってる」ことが提示されるような世界観(!)が苦手。
磐石だけど、ケツの穴がむずむずする。
私はこの小説でも好美ちゃんの方に同情を禁じ得なかった。
いろんな人が「泣けた」というあのシーンも、確かに巧いし印象的だとは思ったけれど、なんかしゃらくせえ!と思ってしまった。
すまぬ!(誰に言ってるかは不明)

自分は、兄弟(兄妹、姉弟、姉妹)愛というものにある種のバイアスがかかっているのかもしれない。
今後、それが外れて、この小説をもっと素直な気持ちで読める日も来るのだろうか。
わからん。
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by kuni19530806 | 2012-11-05 23:49 | 読書 | Trackback | Comments(0)

そろそろ旅に   

松井今朝子著『そろそろ旅に』(講談社)を読む。

この物語の主人公である若い武士、重田与七郎貞一(与七)は後の十返舎一九です。
与七が、かつての主君、小田切土佐守を慕って、家来の太吉と共に故郷の駿河を後にし、江戸経由で大坂に到着したところから小説は始まります。

長編ですが、この小説は彼の生涯をもれなく網羅したものではありません。
大坂で、芝居の面白さに目覚め、同時に、自分の本分が主君に忠誠を誓う忠義者ではないことに気づいた与七は、武士を捨て裕福な材木問屋の婿となり、浄瑠璃作家として歩み始めたものの、放蕩、自堕落な生活で美しい妻を不幸にし、離縁を言い渡され、大坂を離れ、江戸に出てきます。
そして日本橋の版元蔦屋で居候をしつつ、山東京伝の弟子になり、黄表紙作家として世に出、師匠が昵懇の質屋の娘と二度目の祝言を挙げ、今度こそは安定した生活を求める・・も叶わず、また放蕩、そして自分の心の闇にも向き合うこととなり・・で小説は終わります。

十返舎一九といえば、の「東海道中膝栗毛」が描かれる前まで、のお話しで、その後の一九については、エピローグで史実が述べられるにとどまっています。

この小説、さしずめ副題は「ダメ男十数年の軌跡」でしょうか。
与七が大坂に出てきたのはハタチちょっと前で、二度目の妻と上手くいかなくなったのが三十代後半ぐらいですが、その期間、一貫して与七は本当にダメな、困った男なのです。
最初の妻お絹も、二度目の八重も気の毒。
が、当の与七がある意味、いちばん気の毒で切なくて憎めない、と読み手に思わせるところが、この小説のなによりの魅力であり、作者のすごさだと思います。

この小説のタイトルである『そろそろ旅に』には、人間の業というか性(さが)というか、どうしようもなさ、が映し出され、ダメな人間が自分の至らなさを思い知り、受け入れるという、諦めと受容も感じられ、グッときます。
いいタイトルだ。

さすが今朝子さん、相変わらず、江戸の世の町や人の機微、特に遊郭方面の描写はよどみないだけではなく、本当に面白くて飽きさせません。
主君である小田切土佐守様とのシーンとかもすっごく良かった。
それと、今回は山東京伝の他にも、式亭三馬や滝沢馬琴なども登場し、それぞれの個性がありありと描かれています。

でもなんだかんだ言っていちばん印象的だったのは、終盤の家来太吉との真相かなあ。
まさかそっち方面とはねえ。

いろいろ面白かった。
時代小説を堪能しました。
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by kuni19530806 | 2012-11-01 23:37 | 読書 | Trackback | Comments(0)