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気の持ちようの幸福論   

小島慶子『気の持ちようの幸福論』(集英社新書)を読む。

相変わらずだなあ、小島さん。
もう、幾通りもの意味で、相変わらず。

この本は小島さんが書いたのではなく、彼女が話したことをライターが文字に起こしたもの、だそうです。
構成、編集協力、者の名前が表記されています。

口述筆記とも厳密には違う、「インタビューを読みやすく原稿にまとめた本」って最近は多いのだろうか。
なんとなく、すごく多い、多くなってる気がする。
昔はあからさま(?)にゴーストライターと称される人々がいたようで、主な活躍の場はタレント本で・・というのを素人もうっすら知っていたが、その幽霊書き手の名前が本に表記されることはなかった。
暗黙の了解、様式美(←この比喩は間違ってるか)の世界だった。

この手の話でつとに有名なのは、アイドル時代の松本伊代がインタビューで「最近、本を出されたそうですね。どんな内容ですか」と聞かれ、堂々と「まだ読んでいないのでわかりません」と答えたという話。

とにかく、以前は、インタビューを文字に起こしたものでも、丸ごと一から十までゴーストライターの手によるものでも、それが明かされることはなかったのに、最近ははっきり書いちゃうんだねー、それは全体的な風潮?それとも小島慶子さんだから?
と思った、まあそれだけの話です。

そんな内情(?)を知らされて読んだせいか、終始、彼女の書いたものを読んでいるというより、彼女の話を聞いている感じがしました。
もっといえば、あの今はなき伝説のラジオ番組「キラ☆キラ」で時折、スイッチが入って堰を切ったように自分の思いのたけをアツく語る小島慶子劇場を聞いているような感覚でした。

これは、「せっかく活字で読んでいるのにがっかり」という気持ちとセットではなく、「やっぱり、小島慶子さんはラジオだな」という思いとセットです、どちらかというと。
活字なのだから活字ならではの、小島慶子さんの文章そのものを読みたい、という気持ちももちろんありますが、私にはそれより、ラジオの小島、小島のラジオ、に強めの気持ちがある。
彼女が個人的に発信してたネットラジオも聞いたけれど、やっぱり通常の、できればAMラジオでの小島さんのしゃべりを聴きたいです。

私はたいていいつも、小島さんの話の7割ぐらいに共感します。
この本もほぼそのぐらい。
2割はよくわからなかったりどっちでもよかったりで、残り1割は「ちょっと違うんじゃね?」と感じる、だいたいそんな感じ。
これって自分で言うのもなんだけど、すごくまっとうな比率だと思う。
自分の周囲、家族や友達に対しても、このぐらいの共感率がちょうどいいんじゃないのだろうか。
私なんかは、もし、10割共感!とか言われたら気持ち悪いです。
ま、言われたことはないわけですが。

小島さんはすごくはっきり思いを発する、言葉も強めの印象の人なので、受け手も残りの1割の「それはちょっと」がけっこう強調されて残ってしまうけれど、基本的にはそんなにトンガったことを言ってるわけじゃないと思う。
なんであんなにアンチが多いのか不思議なくらいだ。

この本でもいろいろ共感箇所があったわけですが、特に、ああそうだなあと思ったのは、たとえばダメ男と付き合って別れて、あんなヤツと付き合うんじゃなかったと思ったとしても、付き合っているときに感じた楽しさや幸せな気分はなんら否定されるものではないってくだり。
親だってそうで、どうしようもない親だったり、小島さんと母親のように長く確執めいたものがあったとしても、子どもの頃の自分が丸ごと不幸だったわけじゃなければ、子どものときに感じた親を必要としたり、甘えたり、手を繋いで安心した、気持ちがウソなわけでもなければ否定すべきものではない、と。


テレビで「毒舌」的役割を振られている小島慶子さんより、ラジオで真剣に不器用な生き方を晒す小島慶子さんの方が百倍魅力的なんだけどなあ。
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by kuni19530806 | 2012-09-30 21:05 | 読書 | Trackback | Comments(0)

ガター&スタンプ屋の矜持   

文京区立千石図書館 「豊崎由美講演会 ガター&スタンプ屋の矜持 ~書評の読み方、書き方術~」に行く。

豊崎社長の本は実はさほど読んでいなくて、最新刊『ガタスタ屋の矜持 寄らば斬る!篇』も3分の2ぐらいまでは読んだものの、完読せずじまい。
でも、その中で取り上げられた本にはそそられるモノがいっぱいあった。
川崎徹とかバーバラ・ピムとか。
特にバーバラ・ピムは『秋の四重奏』がとても好きなタイプの小説だったので、今は2冊めを読んでるところです。

豊崎社長の話は面白かった。
本人も「人前で話すのは今月もう5回目」とおっしゃっていたが、本当に話し慣れてる感じで、よどみなく滑舌よく、わかりやすくて、テーマから全くブレずズレず、かといって堅苦しさは全くなく、さりとて無理に笑いを取ろうという不自然さもなく、聞きやすかった。
書評と批評の違いを大八車に喩えての図式化、とか、なるほどなあ、と。

社長曰く、書評は読者の方を向いているべきもので、大八車を後ろから押すポジション。
一方、批評は作家のために書かれるもので、大八車の片方の車輪(もう片方は作家)に該当するそうです。
あ、先頭で車を引っ張るのは出版社と編集者、だそうです。

私はその説に全面的に賛同するわけではない・・っていうか、実際はそうなってはいないよねとかなり懐疑的に思うような人間ですが、世の中の「プロの書評家」と称される人々はそれぞれ自分の仕事に位置づけは必要なのだろうし、社長のその定義はそれなりの説得力があるな、とは思いました。

それと、もちろんまず資質あってのことでしょうが、豊崎社長は、長年のライター生活で「今、自分は何を求められているか」を瞬時に察知し、それを最優先に場を進めていく能力が培われ、研ぎ澄まされている御人、という印象。

ただ、あまりにテーマから逸脱せず、時間配分もぴったりで、参加者からの質問と回答の濃さも程良くて、図書館主催の無料イベントとして瑕疵がなさ過ぎるのがちょっと物足りなかった。
・・・と言ったら、単なる言いがかりになってしまうかなあ。

豊崎社長の講演会は面白かった(しつこい)。
それを前提にして以下を言うわけですが

豊崎社長の言う、書評を書くための努力や書評を書くコツを守ったら、一般人はむしろつまらない書評しか書けない気がした。
書評の役割を「いかに読みたいと思わせるか」と定義するならば、もちろんそこに技術は必要だし、プロと名乗る(もしくは名乗ることが目標)のであれば、最低限のルール、社長の言葉を借りれば「矜持」はあるでしょう。
でも、やっぱり書く人間に面白味というかなにがしかの凸凹した部分が感じられなければ、どんなに完成度の高い書評でも私はピンときません・・というかほぼ、つまらない。

暴言を承知で書くと、私はマジメな人は基本的に大好きですが、書評講座に通って、課題本の書評をちゃんと書き、その批評を素直に受け入れ、次回の自分の書評に活かす・・ような人の書評はあまり読みたいと思わないです。
社長は「ブログで書かれている書評の7割ぐらいは読むに耐えない」とおっしゃっていました。
プロとしてコンスタントに仕事がもらえる書評と、単なる素人の本好きが自分のために趣味で書いている書評が全く別物であるのは当然。
で、今回の講演会は、参加者の実態はどうあれ「書評家を目指す人仕様」という方向性を設定している。
なのでそういう社長のコメントになったのでしょうが、私は、むしろその「依頼もないのに勝手に読んだ本の感想を拙い文章でよけいなことも含めて書き散らす」7割の人にこそ小説の将来の希望があるような気がします、優秀な書評家が誕生して、「読みたい」と思わせる、大八車を力強く後押しするような書評を書いて、それにそそられて本を買う人が増えることより。


帰りは八百コーヒーに行けて良かった。
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by kuni19530806 | 2012-09-29 23:27 | お出かけ | Trackback | Comments(0)

立川志らく・桂雀松   

特に落語の大ファンというわけではないけれど、落語は好きです・・たぶん。
でも寄席に足を運んだことはほとんどなくて、今まで行ったのは独演会がほとんど。
しかも、春風亭小朝と立川志らく限定。
この2人の会(あ、一緒にはやりませんよ。言わずもがなかもしれませんが)には何度も行きました。

誤解を承知で書くと、この2人の落語以外はほとんど興味のない偏った落語ファンを長らくやっていました。

それにしても、志らくさんはファンを選ぶ落語家です。
その芸も言動も。
立川流でいえば、志の輔さんや談春さんの落語の方が完成度が高いっていうか、一般向けだとは思います。
が、私は志らくさんの落語がいっとう好きなんだよなあ、やっぱり。
・・と、録画した「落語者」というテレビ番組の最終回、立川志らく「死神」を見て思いました。

巧い!という落語ではないと思う。
凄味がある、と書くと、そこに重厚さや近寄りがたさが付随するようだけれど、そういう凄味ではない気がします。
あ、近寄りがたさは感じる。
けれど、一般的な意味での「偉い人」に感じるそれではなく、もっと生臭い、不快に限りなく近いありがたさ、みたいな感じ・・かなあ。

汗もすごいし、滑舌がいいわけではないし、よどみない「話芸」と称される落語が好きな人にはとても引っかかる落語家だと思います。

そんな志らく落語を見た後、教育テレビの「日本の話芸」という番組で、桂雀松さんという人の落語を見ました。
こちらは志らくさんとはある意味、対極な上方の聞きやすい落語。
こちらもすごく面白かった。

年齢のせいかもしれませんが、偏った落語ファンの看板を下ろし、もっと落語全般を見て、聞いてみようかなあと思いましたでございます。
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by kuni19530806 | 2012-09-23 22:14 | お笑い | Trackback | Comments(0)

二度寝で番茶   

木皿泉『二度寝で番茶』を読む。

ドラマ「すいか」の脚本を書いたのが木皿さんです。
木皿泉というのは夫婦の共同執筆でのペンネームで、内訳は、1952年生まれの男性と1957年生まれの女性です。
ちょっと前、この2人のことがドキュメンタリー番組で取り上げられたそうですが、見逃しました。
男性・・夫の泉さんの方が何年か前に脳梗塞で倒れ、以来、相棒である妻による介護生活、と聞いていたので、ついついベタなイメージを抱いていましたが、この本を読んであらためて、ベタなイメージは想像力の欠如でしかないことよ、と思ったりしました。

巻頭の数篇のエッセイ以外は、夫婦の対談という形式をとっています。
この対談が、木皿脚本となにかとシンクロしていて、ついニヤニヤしてしまいます。

この2人の執筆形態に触発されて、私は以前、「ゴールデンスランパ(pa)ー」(スランバ(ba)ーではない)という小説もどきを書いたことを久しぶりに思い出しました。
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by kuni19530806 | 2012-09-23 21:50 | 読書 | Trackback | Comments(0)

見とれていたい☆わたしのアイドルたち☆   

柴崎友香『見とれていたい☆わたしのアイドルたち☆』を読む。

取り上げられている「アイドル」は
 スカーレット・ヨハンソン
 ジュリー・デルピー&ジュリエット・ビノシュ
 エマニュエル・べアール
 ケイト・ブランシェット
 インリン・オブ・ジョイトイ
 ニコール・キッドマン
 クリスティーナ・リッチ
 カイリー・ミノーグ
 マギー・チャン&チャン・ツィイー
 ペネロペ・クルス
 安室奈美恵
 松坂慶子
 ヴァネッサ・パラディ
 キャサリン・ゼタ=ジョーンズ
 ナタリー・ポートマン
 ドリュー・バリモア
 ヘレン・ミレン&ジュディ・デンチ
 カトリーヌ・ドヌーヴ
 マドンナ
です。

著者は私より一回りぐらい年下ですが、女子(!)が女子に憧れる、という構図はすごくわかるものの、その愛で方(?)は自分世代とはちょっと違う気がします。
必ずしも世代間の相違、ではないのでしょうが、この柴崎さんに限らず、自分の周囲を見ても、けっこうそれを感じるもので。
極私的世代間の相違か。

自分が若いときから今まで、アイドル(今回は女子に限定)と呼ばれる人はたーくさんいましたが、大きく分けると、①同性に人気がある ②異性に人気がある の2大派閥だったと思われます。

①の代表が山口百恵や中森明菜で、もうちょっと古いところでは南沙織。
②の代表は、百恵ちゃんの対としての桜田淳子、あとは石野真子とか。初期の松田聖子はダントツだったのかなあ。

①も②も主観です主観。
でも、きっと多くが感じる2派の違いは歴然とあって、それは同性から見て「わざとらしくないかわざとらしいか、かっこいいか可愛いか」が肝だったと思います。
実際にどうかは関係なくて、雰囲気がそう見えるか否か、だけだったのでしょうけど。
わざとらしくないアイドルなんていないしさ。


昔って、情報は今よりずっと少ない分、想像力がたくましいっていうか、醸し出す気配に敏感っていうか、女子のアイドルに対する嗅覚は鋭くて、鋭い分、厳しくて、山口百恵や宝塚ワールドなどの特別なステージに到達した事例以外、たとえ内心、羨望や嫉妬は渦巻いても、女子が表立ってアイドルをアツく礼賛することはあまりなかった気がします。

でも今は、みんな屈託なく、手放しで礼賛するし語るよねー。
もちろんそれは必ずしも悪いことじゃないと思う。
やっかんだりシカトしたりせず、可愛いものは可愛いと思い口にも出し、マネしたり、糧にしたり・・することに文句をつける筋合いの者ではございません。

ただ、私のような心の汚れた人間にはどう考えてもその良さがわからないママタレや読モのブログ、あろうことか加●茶のブログに登場する嫁にまで、同性が「可愛い♥」「大好き♡」「ずっと応援してまーす」とかのコメントをたくさん寄せているのを見ると、時代は変わったものだーと感慨深いのと同時に、気色悪い。
そこにシニカルな視点はないのか?あるだろ?ないんなら思考停止じゃねーの?みたいな。

あくまでも喩え、極論ですが、ハリボテの書き割りの景色や風景を一瞬目視しただけで、キレイ!素敵!行ってみたーい!と快哉を上げてる感じに似ているような。
その瞬間以外は、前後に感情の痕跡すらない、のに言ってるみたいな。
ハリボテに気づいて言ってるんだとしても、気づいてないんだとしても、どっちも、気色悪い。


あ、この本はそんな気色悪い本では全くありません。
人選からもそこはかとなく察せられるように、著者がその目でアタマで気持ちで「好き」になった「アイドル」の魅力が、きちんと前後関係のある文章、説得力のある言葉、で綴られています。
いろんな意味でバランスや視界が良すぎて、それがイヤミなくらいです。

でもなあ、今ひとつ読んで心躍らなかったのが正直な気持ちです。
自分がここに登場するアイドルの、映画を見てない、曲を聴いてない、からかなあとも思ったのですが、やはり、なんだかんだ言っても、その「微妙な感じ」は基本的な同性の見方の違い、のような気がします。
この本に出てくる「アイドル」の3分の2ぐらいの佇まいや顔立ちは、私もけっこう好きだし、書いてあることも納得なのですが、納得はしても釈然とはしないっていうかね。

ああ、上手く言えない。
でも、その違和感こそが、これを読んだ甲斐にも思えます。
なんだそりゃ?

表紙のかっこいい女性は松坂慶子サマです。
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by kuni19530806 | 2012-09-18 23:17 | 読書 | Trackback | Comments(0)

夜をぶっとばせ   

やっと秋になったと思ったのに、またぞろ夏がぶり返してきた。
今年は夏をこじらしてしまったみたいだ。
蒸し暑くて寝苦しそうな夜。
秋の虫が盛んに鳴いていることだけが涼しげ。

今日は遅番だったのだが、夕方、遅い昼休みをとっていたら突如、Kさんが職場にやってきた。
Kさんはこの日記にもたまに登場する友達で、そもそもは私が20代前半から6年ほど勤めていた会社の先輩。
思えば長~い付き合いだ。
お互いいろいろあり、Kさんは30代後半でシングルマザーになり、娘Nちゃんが生まれてしばらくは私はNちゃんのセカンドマザーきどりで、片道1時間半のKさんの家に足繁く通った。
そのNちゃんも今では高校1年生。
高校1年生!?
そうかあ、あれからもう16年なのかあ。

Kさんとは最近、連絡をとっていなかった。
会うのは3年ぶりぐらい。
今回Kさんが職場に突如やってきたのは、Kさんがずいぶん前に携帯電話をなくし、我が家の既に未使用の電話番号しか知らず用事があったのに私への連絡が出来なかったからだが、こちらからもKさんに連絡してなかったことを柄にもなく激しく反省してしまった。
携帯は不通だったけど、家の番号は普通に繋がるのにね。

携帯やメールで知人にカンタンにラクに連絡をとることができる便利な世の中になった分、その方法が使えない人との連絡を億劫がってる気がする、私。

自分が連絡を取りたいと思う人とピンポイントで確実に連絡がとれることって、今では物理的にはカンタンな行為に成り下がってるが、考えてみるとものすごくたいへんでラッキーなことだよなあ。
あまりにそれがあたりまえになっているので、家に電話をして、本人以外が出るかもしれないことを考慮し、本人が出ても間が悪いときにかけちゃったらやだなとか思うことをすごく億劫がってる。
そもそも、家での自分に、メールをするモチベーション(!)はあっても、電話をかけるというのはあまりないかも。
身内や親戚は別として。
いったいなにをそんなにめんどくさがっているのだ、自分。

連絡がとりたい人と連絡がとれるって大げさっぽいけど実は僥倖なのだ。
メールはものすごく便利だし、もうそれがない生活なんて考えられない!ぐらいに思っているけれど、便利過ぎる世の中はどこかで足元を掬われる、とちょっと前なら思ってたはずじゃないか、自分。

そんなわけで、3年ぶりぐらいにKさんちに行くことにした。

あ、本当は井上荒野さんの『夜をぶっとばせ』の感想を書くつもりだったのだ。
不思議な小説だった。
同じ事象を視点を変えて書く、というの、好きです。
でも、登場人物誰ひとりにも共感できず、入り込めなかった。
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by kuni19530806 | 2012-09-08 23:10 | 読書 | Trackback | Comments(0)

秋の四重奏   

バーバラ・ピム著『秋の四重奏』を読む。

ロンドンを舞台にした、職場の同僚である定年間近な男女2人ずつの日常を綴った物語です。
重篤な病を患った人あたりの悪い、大きな目でぎょっとしたように相手を見るマーシャ、人あたりは悪くないものの、結婚もそれ以前の恋愛にも縁遠く、遠慮がちな人生を歩んできた常識人レティ・・この2人の女性は定年退職の日を迎えますが、残った男性・・教会に生きるよすがを見出しているような長身エドゥイン、ワンルーム住まいの自虐ネタが十八番でシニカルな小柄のノーマン、は職場に残ります。

2人が定年を迎えること以外に小説的な事件は起こりません。
定年すら、あえてそう描いているとしか思えないほど地味な日常の延長です。
女性2人に対しては特に、ポジティブな要素は皆無の描写に終始します。
男性陣も・・まあトーンは似ています。
そして、多少の誤差はあれ近い将来、人生には必ず死というものが待っていて、人はそれを避けて通れないのだということが、タイトルにも彼らの静かな日々にも色濃く映し出されています。

こう書くと、この小説は暗く、どうしようもない鬱々とした世界を描いているかのようですが、必ずしもそうではありません。
いや、暗くて鬱々とした世界を描いているのですが湿ってはいない、と書いた方がいいかも。

人生は充実した人生とそうでない人生に二極分化されるわけはなく、もちろん良い悪いもなく、あるのは、自分の軌跡であり現実であり受容するしかない将来であり、心の広さや狭さ、心身の健康状態、生き甲斐と称するものの有無、家族愛や友情、金銭や物理的安心、などなどは、人生にとっては確かに大切な要素だけれども、それは人それぞれの芯の安定やその人の価値(みたいなもの)とは必ずしも連動してなくて、そこに一般論は存在せず、ついでに言えば人は誰しも孤独に決まっているし、ただ、今この瞬間を生きていること、もしくは死にかけていること、にこそ、現実という名をもっての意味があるのだ、それだけでいいのだ、とあらためて思えた、ような、私にはとても心に沁みる小説でした。

自分の人生、どこで間違っちゃったんだろ、と時々思います。
それは私の場合、後悔というより疑問で、その根底には「もう一度人生をやり直したとしてもまた間違うに決まってる」というのがあり、次回こそ大事なところで間違わない人生を!などとおこがましいことを思うのではなく、単になりゆきの種類を検証する感覚。
なりゆきに抗う、などという畏れ多いことは考えられず、あくまでも「まず、なりゆきありき」という自分の人生観(?)はいかがなものかとも思うのですが。

諦観ではなく、絶望とも違う、受容とは似ているけれどもドンピシャではない自分の毎日は、たぶん人より自作自演度も自己実現度も自己満足度も低いけれど、それはきっと自分がなにより求めるのは平穏さだからで、そんな自分にとってこの小説の4人は、基本的な部分で共感できたというか、同時に、反面教師で参考になったというか、とにかく面白く読めたのでした。

自分としては赤裸々なことを書いてしまうと、私はこれを読んで、自分が「普通はこうでしょ」的人生に翻弄されなくて良かったなと思いました。
その安堵は、良かった\(^^)/ではなく、人生の端っこで密かにホッと一息、みたいな安堵感。
私はたいした人生経験はないし、基本的に軽率な人間ですが、鋳型に嵌った幸せ、みたいなものはないし、あるように見えたらそれは幻想、というのだけはわかります。
ムリをして幸せになろうとするのは、潔癖症なくせに変態、ってことと同じくらい、私にはネタだ。
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by kuni19530806 | 2012-09-05 23:55 | 読書 | Trackback | Comments(1)

評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」   

横田増生著『評伝ナンシー関 心に一人のナンシーを』を読む。

ナンシーが逝って10年。
10年かあ。
手垢にまみれたベタな言い草になるけれど、私達はもう10年もナンシーのいない世界を生きているんだなあ。

文章を書くことに興味があって、でも自分はどちらかというと丸ごとフィクションを書くことには向かないかもと思ってて、若いときはサブカル的な方面に興味があった中年で、ナンシーに全く影響を受けなかった人っているんだろうか。

私は本当に影響を受けました。
ナンシーを知る以前と知った後では、文章というか文体というかも、そこに至るモノの見方や感じ方も、思考経路や自分の身の置きどころ、かっこつけた言い方をすれば「律し方」も、変わった気がします。
気がする、ではなく、変わりました。
もちろん、ナンシー御大の足元にも及ばないし、もっといえば、その変化を全て「正」とか「善」と盲信しているわけではない。
けれど、この本のサブタイトルのように、私は私のナンシーを、彼女の生前も没後もずっと持ち続けている。
その大きさは都度都度変化しているものの。

今回、この本を読んで、その大きさが年々、ただ縮んでいるわけでは全くないことをあらためて思い知りました。
ナンシーの文章を読み返したり、今回のようにナンシーについてじっくり思いを馳せると、心のナンシーはまた大きくなります。
自分の弛んだ一部に喝が入ります。

私は正直、この本にさほど直接的感銘は受けませんでした。
そもそも、ナンシーの39年の人生を、生前、全く面識どころか特に彼女に強い興味すらなかった人間が分析し、彼女が自ら語ろうとしなかった部分をも(言葉は悪いけど)引きずり出し、咀嚼しようとすることの是否がいまだよくわかりません。

かといって、評伝というのは対象を愛好する者だけがすべき、と思っているわけではない。
フラットなポジションだからこそ見えてくるものもいっぱいあるとは思うのです。
この著者はよく頑張ったとも思う。
それでも・・という気持ちがあります。

それは、この本の中でも触れられているように、ナンシー自身、テレビを仕事場にしている人間に対して語るときの大前提が「見せているもの、提示しているものだけでその人間を判断するべき」で、それは見事なほど徹底されていて、それを、ナンシー自身にも採用するべきなのではないか、と私が思うから。
彼女がついた嘘とか、恋愛や結婚に対しての考え方、などを、いくら没後10年とはいえ、いまさら白日の下に曝す必要があるのか、みたいな。

私はナンシーの出自や経歴にはあまり興味がありません。
興味がない、と言い切ってしまうとアレだし、世の「評伝」というジャンルを全否定するみたいでアレのアレなのですが、「どうしてあんなすごい、面白い文章を書けるのだろう」というベクトルではナンシーに興味津々だったし今もそうですが、「あの文章を書くに至るまでと、売れっ子以降のナンシーの心中を掘り下げる」にはあまり興味がないのです。
自分がナンシーの文章でガツンとくる、その事実だけで満足だしお腹いっぱいで、それ以外の余地はないっていうか、どうでもいいっていうか。
・・あ、この部分は書けば書くほど、自分は冷酷で薄っぺらい人間だとカミングアウトしてるみたいだ。

いやらしい言い方をすると「ナンシーは自分の聖域」ってのがあるんですが、それは本当にいやらしいからなあ。

ここまで書いてナンですが、この本に価値はバリバリあると思います。
直接取材を受けた「彼女を実際に知る人」や、私のような一介の、でもものすごく影響を受けたファン、がこの世からいなくなってナンシーの文章だけが残ったときに、後世への貴重な橋渡し役になると思うし、とても大事なものを伝承してくれる存在になると思います。
・・ここんとこも上手く言えてないんだけどね、自分。

要するに、好き過ぎるってことなのか、私。
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by kuni19530806 | 2012-09-01 18:38 | 読書 | Trackback | Comments(0)