2012年 05月 12日 ( 1 )   

飼い喰い   

内澤旬子『飼い喰い 三匹の豚とわたし』を読む。

周囲にファンの多い内澤さんだが、私は読むのは初めて。
そう、『身体のいいなり』も『世界屠畜紀行』も未読です。
そして『飼い喰い』を読んだ後に思うのは、やっぱり上の2作は先に読んどくんだった、です。

私はしょっちゅう同じことを言ったり書いたりしてる人間です。
持ちネタが少ないってことと、それ以前に最近、誰に何を言ったか言ってないかがとみに覚えていられなくなっているので、前に言ったり書いたりしてるかもしんないけどまあいいや、がデフォルト化しているのが「実情」だったりします。

でも、自分の発言は公式記録(?)には記されていないけれど、書いたことはこうしてここに残っているわけで、たま~にあらためて読み返すと(このエキサイトブログの機能がいろいろ変ったせいもあって、うっかり読み返す、その頻度は増えたかも)自分は人や世界に対して特に言いたいことはないものの、しょっちゅう考えてしまっていること、変わらずに思っていること、はあるみたいだなと気づいたりします。

その代表選手(!)は「人生はハイリスクハイリターンだ」と「人は点でなく線で生きてる」だと思われます。
そして、この『飼い喰い』であらためて感じたのは後者。

『身体のいいなり』と『世界屠畜紀行』を先に読むべきだった、と強く思ったのもそのせいです。
内澤さんがこの本を書くに至った経緯やこの本で記されたり描かれている出来事は、正直、この本だけでは私レベルの読み手に伝えきれていない気がします。

いや、この本が「独立した1冊」である以上、内澤旬子さんになんの予備知識がなくても他の著作を一切読んでいなくても、これのみで著者が表現した、そして読者が受け取ったもので充分という考え方はあるし、それは正しいとも思うのです。
それこそ、想像力の出番だ、とも言えるし。

ただ、誰より著者自身が、この本を「すでに自分に関する知識のある人に向けてしか書いてない」気がしてしょうがなく、それはこの本の肝である「喰うために飼う豚に名前をつけてなかばペットのように育て、でも最後はやっぱり屠って喰う」の「屠って喰う」瞬間に顕著な気がします。
もちろん、屠る部分の気持ちや考察は『世界・・』で深く掘り下げているのでしょうから、今回はそれを踏まえての次の段階、的なことではあるのでしょう。
私もなにも「豚をつぶして喰うとき、もっと書き手が感情的になると思った」と期待していたわけではない。
著者の屠殺に対する立ち位置というか気持ちは、この本1冊だけでも察せられるし、この本の肝は「屠って喰う」であると同時に、その前の「喰うために飼う豚に名前をつけてなかばペットのように育て」でもあることが十分に理解できる。

でもでも、それはそうでも、やはり私にはどうしても「いちげんさんは相手にしません」感が否めなかった。
なんでですかねー。

ちなみに、もし、書き手や売り手や業界関係者やファンに「なに、難癖つけてんの?他の著作を読んでからこれを読むのが当然でしょ」と言われるとしたら、私はそこには大々的に反論する用意があります(こわっ!)。

いろいろ書きましたが、いろいろ凄い本です。
本の雑誌の6月号の内澤さんと服部文祥さんの対談を読んだらあらたにいろいろ(いろいろばっかだ)補完されたので、あらためて「すげえ本だ」と思っている昨日今日です。
私も、あの「自然に感謝」を全ての免罪符にして、それでなにもかも許される・・ばかりか、自分は誰よりわかってる、と勘違いしてるみたいな輩に以前からすごく違和感があったし、この本の172ページの【「健やかに育て」と愛情をこめて育てることと、それを出荷して、つまり殺して肉にして、換金すること。動物の死と生と、自分の生存とが(たとえ金銭が介在したとしても)有機的に共存することに、私はある種の豊かさを感じるのだ。大規模化して薄まっているとはいえ、やっぱり畜産の基本には、この豊かさがある。そのことを、食べる側の人たちにも、もっともっと実感してもらえたらいいのに。】という文章には、深く深く感じ入りました。
171ページまで、正直ちょっと「内澤さんって強い以上にどっか鈍感な人かも」と思っていたことを心から申し訳なく思った。

下世話方面で気になったこと。
いろんな登場人物が出てくるのに、南駄楼さんが後半「配偶者が」と一度だけ一瞬だけの登場だったこと。
いろいろ邪推してしまった。
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by kuni19530806 | 2012-05-12 22:18 | 読書 | Trackback | Comments(0)