評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」   

横田増生著『評伝ナンシー関 心に一人のナンシーを』を読む。

ナンシーが逝って10年。
10年かあ。
手垢にまみれたベタな言い草になるけれど、私達はもう10年もナンシーのいない世界を生きているんだなあ。

文章を書くことに興味があって、でも自分はどちらかというと丸ごとフィクションを書くことには向かないかもと思ってて、若いときはサブカル的な方面に興味があった中年で、ナンシーに全く影響を受けなかった人っているんだろうか。

私は本当に影響を受けました。
ナンシーを知る以前と知った後では、文章というか文体というかも、そこに至るモノの見方や感じ方も、思考経路や自分の身の置きどころ、かっこつけた言い方をすれば「律し方」も、変わった気がします。
気がする、ではなく、変わりました。
もちろん、ナンシー御大の足元にも及ばないし、もっといえば、その変化を全て「正」とか「善」と盲信しているわけではない。
けれど、この本のサブタイトルのように、私は私のナンシーを、彼女の生前も没後もずっと持ち続けている。
その大きさは都度都度変化しているものの。

今回、この本を読んで、その大きさが年々、ただ縮んでいるわけでは全くないことをあらためて思い知りました。
ナンシーの文章を読み返したり、今回のようにナンシーについてじっくり思いを馳せると、心のナンシーはまた大きくなります。
自分の弛んだ一部に喝が入ります。

私は正直、この本にさほど直接的感銘は受けませんでした。
そもそも、ナンシーの39年の人生を、生前、全く面識どころか特に彼女に強い興味すらなかった人間が分析し、彼女が自ら語ろうとしなかった部分をも(言葉は悪いけど)引きずり出し、咀嚼しようとすることの是否がいまだよくわかりません。

かといって、評伝というのは対象を愛好する者だけがすべき、と思っているわけではない。
フラットなポジションだからこそ見えてくるものもいっぱいあるとは思うのです。
この著者はよく頑張ったとも思う。
それでも・・という気持ちがあります。

それは、この本の中でも触れられているように、ナンシー自身、テレビを仕事場にしている人間に対して語るときの大前提が「見せているもの、提示しているものだけでその人間を判断するべき」で、それは見事なほど徹底されていて、それを、ナンシー自身にも採用するべきなのではないか、と私が思うから。
彼女がついた嘘とか、恋愛や結婚に対しての考え方、などを、いくら没後10年とはいえ、いまさら白日の下に曝す必要があるのか、みたいな。

私はナンシーの出自や経歴にはあまり興味がありません。
興味がない、と言い切ってしまうとアレだし、世の「評伝」というジャンルを全否定するみたいでアレのアレなのですが、「どうしてあんなすごい、面白い文章を書けるのだろう」というベクトルではナンシーに興味津々だったし今もそうですが、「あの文章を書くに至るまでと、売れっ子以降のナンシーの心中を掘り下げる」にはあまり興味がないのです。
自分がナンシーの文章でガツンとくる、その事実だけで満足だしお腹いっぱいで、それ以外の余地はないっていうか、どうでもいいっていうか。
・・あ、この部分は書けば書くほど、自分は冷酷で薄っぺらい人間だとカミングアウトしてるみたいだ。

いやらしい言い方をすると「ナンシーは自分の聖域」ってのがあるんですが、それは本当にいやらしいからなあ。

ここまで書いてナンですが、この本に価値はバリバリあると思います。
直接取材を受けた「彼女を実際に知る人」や、私のような一介の、でもものすごく影響を受けたファン、がこの世からいなくなってナンシーの文章だけが残ったときに、後世への貴重な橋渡し役になると思うし、とても大事なものを伝承してくれる存在になると思います。
・・ここんとこも上手く言えてないんだけどね、自分。

要するに、好き過ぎるってことなのか、私。
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by kuni19530806 | 2012-09-01 18:38 | 読書

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