まつりのあと   

オリンピックが終わったらやっぱり国内政治も経済も外交も社会問題も自然災害のままならなさも震災の復興も原発事故のその後もいっかないい感じには推移していない、ばかりかその多くは悪化の一途に見え、そこにまた新たなどよんとする事件が付け加わっている感じで、ああ、人々(もちろん自分も含む)は日本のこういう現状にもういいかげんうんざり、辟易し切っていて、だからあんなにも、時に集団ヒステリーチックに見えるほどにオリンピックに没頭していたのだなあとあらためて思ったりしています。
まだ1ヶ月も経っていないのに、ロンドンオリンピックのあの日々は遠い昔の、もっといえばうたかたのようです。

今となれば、男子柔道の不振も、内村航平選手のしょっぱなのつまずきも、北島康介選手の個人での今一歩な感じも、何かとなかなか届かなかった金も、ネガティブな記憶としては全く残っていない。
後半のメダルラッシュな感じがそれらを帳消しした、というより、もうロンドンオリンピックはほとんどの人々(もちろん自分を含む)の中で、丸ごと「素晴らしくてポジティブで感動した『善きこと』の象徴」になっていて、だからこその凱旋パレードの盛況だったのだと思われます。

あれは象徴崇拝というか信仰に近いような気がします。
みんな、あわよくばあの気持ちのままでいたい、ネガティブな現実なんて見たくない、でもそう思えば思うほど記憶と気持ちが薄れてしまうことに関する怖れというか危機感が増し、いても立ってもいられなくなってパレードを見に行っちゃった、みたいな。

選手たちは人の多さに一様に驚いていたけれど、あれは「ふだん無宗教を標榜している『現実など見たくない教』の一大カミングアウト大会」だった、とか。

すげえ極論ですが、なんかあの人出の映像や写真を見て、ふと「ここには既製の具体的宗教をおおっぴらに信心してる人はひとりもいなさそう」と思ったもんで。
根拠なし。

とりあえず、あのパレードの人出と主催者側の趣旨はあまり連動してないだろうな。
要するに、東京オリンピック招致。
オリンピックは大好きだし、カンタンに感動するし、パレードで有名選手を間近に見ることができるならちょっとは労力は費やすけれど、特に東京でオリンピックをやって欲しいとは強く思ってないんじゃないっすかね、多くの人々は。

オリンピックって、テレビの画面を通して、なんならちょっと舌打ちするぐらいの時差があって、感動は容易く受信できるけれど落胆はなかったことにできる、ほどほどの距離感というか、やたら至近距離に入ってこないポジションで開催される方がラク、と思っている人が多いんじゃないだろうか。
たとえば私とか。
[PR]

by kuni19530806 | 2012-08-21 10:28 | その他 | Trackback | Comments(0)

トラックバックURL : http://giana.exblog.jp/tb/16011112
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。

<< ユリゴコロ Happy Box >>