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なるたけ一緒に   

マロの足腰が立たなくなりました。
数日前そういうことがあって、一度復活したのですが、またヘニョッとなってしまい、その後は横たわったままです。
食事はそのままの体勢ながらなんとか食べていますが、生気や精気(←両者の厳密な違いがわからないので一応両方書いとく)はあまりなく、家人が交代で脇に寄り添って話しかけたり、水を飲ませたり、マイミク某みーるさんからいただき、マロの大好物のトップクラスに躍り出たミルクパウダーを舐めさせたりしています。

特に苦しそうではありません。
ただ、このままふっと命の灯が消えてしまいそうなはかなげな風情なのです。
自力で上体が起こせたり食事を摂っているうちはそんなことにはならないだろう、とは思うのですが、横たわったマロがあまりに静かな眼をしているのでこちらが眼を離せず、ほっておけません。
その眼は、達観というか諦観というか、村上春樹風にいえば「澄んだ湖の底のような眼」です。

何を考えているのだろう。
この家で過ごした15年近い日々のことか、自分を可愛がってくれて既に鬼籍に入った複数の近所のおじいさんやおばあさん達のこと、はたまた自分が生まれた家での親や兄弟達との暮らしのことを思い出しているのだろうか。

何も考えていないのかもしれません。
あ~なんだか疲れちゃったなあとちょっと心を抛り出しているだけなのかもしれない。
ただ、なんだかやけに落ち着いた眼をしてるのですよね、マロ。

マロとの散歩は今までで延べ何十時間になるのだろう。
もしかして何百時間?
もう、マロと近所を歩くことは本当にかなわないのだろうか。
よく一緒に行った公園はリニューアルしてしまったし、渡った歩道橋も途中の大木もなくなってしまった。
歩道橋のすぐ脇のお宅で暮らしていてマロが大好きだったタカヌキさんも亡くなってしまったし、よくマロにいろんなものをくれた近くのオバサンも引っ越して行きました。
最後は「マロちゃんへ」と缶詰をくれたっけ。

これでマロまでいなくなっちゃったら、今までの何十時間何百時間が本当にあったことなのか、実在した人やモノなのかわからなくなってしまいそうだ。

思い出は鮮明に残る、という言い方は確かにできますし、実際、残ります。
現物がいなくなった時点でそれにまつわる思い出が消えてしまうとしたら、人の心はあまりに殺伐としてしまうでしょう。
でも、思い出はある意味、逃げ水で空想で妄想です。
事実と事実的なこと、との境目はどんどんあいまいになったりします。
手を伸ばせば届きそうなのにゼッタイ届きません。
そして、思い出が鮮明である方がむしろ不在の実感が増したりします。

だから今、なるたけマロのそばに居るのだ。
何もできないし、時々めちゃくちゃ悲しくなってしまうけれど、マロの体温や息づかいやにおいや肌触りを実感してたいのだ。
どんなにそうしても、いざマロがいなくなってしまったときの「ああもっと近くに居ればよかった!触っておけばよかった!」の後悔と飢餓感は変わらないだろうけど、本当にマロは今ここにいる、と思っていたいのだ。

そんなわけで
デートに誘ってもらったのに、ごめんねーMさん。

by kuni19530806 | 2011-12-29 23:51 | 友達

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